人はなぜ、動く眉を消してまで、新しい眉を描いたのか。

鏡に向かい、剃刀で眉を落とす平安の女性を描いた絵(Luna SĀYA 作) 化粧研究

眉は、顔の中でよく動く場所である。

驚けば上がり、怒れば寄り、悲しめば内側が持ち上がる。本人が気づくより先に、眉のほうが動いていることがある。

その眉を、日本の人々は千年以上にわたって、抜き、剃り、別の場所に描き直してきた。

美しく見せるため、と一言で言うには、あまりに長い時間である。

人はなぜ、自分の顔から動く眉を消してまで、新しい眉を描いたのか。その跡を、時代の順にたどってみようと思う。

三日月を、眉に引く——奈良時代

奈良時代、唐の化粧が海を渡ってきた。もとの眉を剃るか抜くかして、細い弓形(ゆみなり)の眉を墨で描く。唐では眉の形ひとつひとつに名前がつけられ、玄宗(げんそう)皇帝が画工(がこう)に十種類の眉を描かせた『十眉図(じゅうびず)※』があったと伝えられている。遠山眉(とおやままゆ)、却月眉(きゃくげつまゆ)※——遠くの山の稜線(りょうせん)、欠けた月。眉は、景色の名前で呼ばれていた。

『万葉集』には、大伴家持(おおとものやかもち)が十六歳ごろに詠んだとされる一首が残っている。

振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも
(ふりさけて みかづきみれば ひとめみし ひとのまよびき おもほゆるかも)

空を振り仰いで三日月を見ると、一度だけ見たあの人の引いた眉が思い出される。

「眉引き(まよびき)」は、眉を描くことを指す言葉である。家持が思い出しているのは、生まれつきの眉ではなく、その人が自分の手で引いた一本の線だった。

眉を、額の高いところへ——平安時代

平安時代の貴族の女性たちは、自分の眉をすべて抜いた。白粉(おしろい)を塗った額の、もとの眉よりも高いところに、眉墨(まゆずみ)でぼかした眉を描く。

この化粧には、額に描いた眉なら感情につれて動くことがないので、穏やかで高貴な雰囲気になる、という美意識があったと解説されている。眉は、権威と身分をあらわすしるしでもあった。

平安の終わりごろには、公家(くげ。天皇のそばで朝廷に仕えた貴族のこと)の男性も眉を抜いて描くようになる。『平家物語』の「敦盛最期(あつもりさいご)」では、一ノ谷(いちのたに)の浜で熊谷直実(くまがいなおざね)が組み伏せた十六、七歳の若武者(わかむしゃ)・平敦盛(たいらのあつもり)の顔が、こう書かれている。

薄化粧して、かね黒なり
(うすげしょうして、かねぐろなり)

薄く化粧をし、歯を黒く染めていた。戦場に立つ若者の顔にも、身分のしるしが描かれていた。

公家の男子が元服(げんぷく)のときに描いた眉は、のちに「殿上眉(てんじょうまゆ)」と呼ばれる。眉を剃り、その上の高い位置に、墨で丸い眉を二つ置く形である。室町時代以降、その位置はさらに高くなり、能面にも写された。女性たちの引眉(ひきまゆ)とは、別の系譜(けいふ)の眉である。

眉を描かれた少女と、眉を抜かなかった姫

同じ時代の物語に、対になる二人の女性がいる。

『源氏物語』の「末摘花(すえつむはな)」の帖(じょう)。光源氏に引き取られた幼い紫の上(むらさきのうえ)は、昔かたぎの祖母に育てられたなごりで、まだお歯黒もしていなかった。源氏が身づくろいをさせると、眉がくっきりと引かれ、その顔はかわいらしく美しかった、と書かれている。

歯黒めもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり
(はぐろめもまだしかりけるを、ひきつくろわせたまえれば、まゆのけざやかになりたるも、うつくしゅうきよらなり)

もう一人は、『堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)』の「虫めづる姫君(むしめづるひめぎみ)」である。毛虫を愛でる(めでる)この姫は、こう言った。

人はすべて、つくろふところあるはわろし
(ひとはすべて、つくろうところあるはわろし)

人は何事も、取りつくろうところがあるのはよくない。そう言って、眉を抜かず、お歯黒もつけなかった。

人の手で眉を引かれた少女と、自分で眉を抜かないと決めた姫。千年前の物語に、二つの眉が残っている。

眉が、人生の節目を描く——江戸時代

室町のころに整えられはじめた武家の礼法では、女性は十四歳から十六歳ごろに眉を剃り落として「本眉(ほんまゆ)」をつくった。これを「本元服(ほんげんぷく)」と呼び、成人した女性と認められるしるしだった。

江戸時代になると、この習慣は庶民にも広がり、かたちを変える。結婚の前後に歯を黒く染め、子どもが生まれると眉を剃る。眉は、その人がいま人生のどこにいるのかを、顔の上にあらわすものになった。

結婚する前の娘たちは、自分の顔かたちに合わせて、おしゃれに眉を描いていた。一八一三年(文化十年)に出た化粧の手引き書『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』には、顔の形ごとに似合う眉が書かれている。丸い顔には細い三日月形の眉を、長い顔には少し太めの眉を。

眉墨には、麦の穂につく黒い黒穂(くろほ)や、灯火の煤(すす)である油煙(ゆえん)などが使われた。公家や武家の女性たちは、煤と油を練った「捏墨(こねずみ)」で、額の上に眉を描いた。

眉が、顔に戻ってくる——明治時代

明治に入ると、眉を剃る習慣は、外から来た人々の目には不思議なものとして映った。

一八七〇年(明治三年)、太政官布告(だじょうかんふこく)によって、華族(かぞく)の引眉とお歯黒が禁じられる。けれども、身についた習慣はすぐには変わらなかった。

一八七三年(明治六年)三月、皇后が自ら眉を剃ることとお歯黒をやめる。これをきっかけに、生まれたままの眉と白い歯が、少しずつ人々に受け入れられていった。明治の中ごろには、引眉はほとんど見られなくなる。

千年以上ものあいだ消され、描き直されてきた眉が、ふたたび顔に戻ってきた。

眉間(みけん)には、門がある。

ここからの文章は、現世を生きているわたしサーヤという人間が人相学的な視点から考える眉間についての考察である。

眉は感情で動く。そして、その二本の眉のあいだにある眉間は、わたしには、その人が相手に自分の内側を見せるか、見せないかの境界線をあらわしている場所に見える。

自分の内側を見せたくないと警戒している人の表情をよく見ると、眉間に皺が寄っていることがあり、他人との境界線を強く引きたい時には、眉間に強く皺が入ることがある。

 逆に、他人に対する警戒心が溶け、安心している状態では、眉間に力が入ることは少ない。むしろ、眉尻まで眉を動かす筋肉が下がり、両眉が八の字のように見えることすらある。

 だから、眉間は「その人の境界線を見る」一番わかりやすい場所である。


yohaku

わたしの眉はよく動く。驚いた時には上に上がり、嫌なことがあるとすぐに眉間に力が入る。また、相手を見極めようとする時には、眉間と目の間の間隔が狭くなる。

自分の顔を観察していると、眉は驚くほど、わたしの心の動きに沿った動きをしている。


参考資料

  • ポーラ文化研究所「化粧文化史」平安時代3/江戸時代6/明治時代2
  • ポーラ文化研究所「浮世絵にみる江戸美人のよそおい 第十一章 眉化粧」
  • 国立国会図書館「本の万華鏡 めーきゃっぷ今昔」
  • 『万葉集』巻六(大伴家持)
  • 『源氏物語』末摘花
  • 『堤中納言物語』虫めづる姫君
  • 『平家物語』巻九 敦盛最期
  • 佐山半七丸(さやまはんしちまる)『都風俗化粧伝』(一八一三年)

※「十眉図」「却月眉」の読みは、辞書ではっきりした読みを確かめられなかったため、一般的な読み方を記した。

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