灯火

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忘れもの

電車の座席に、手袋が、片方だけ、残されていた。拾った女は、それを、駅員に、届けようとした。だが、ふと、思い直して、いちばん目立つ、手すりの上に、置いた。「探しに来た人が、すぐ見つけられるように」落とし主のことを、会ったこともないのに、想って...
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夜のパン屋

その店の灯りは、朝が、早い。まだ、外が暗いうちから、パン屋の窓に、あかりが、ともる。夜勤明けの人が、その灯りを見て、ほっとする。始発を待つ人が、その灯りに、あたたまる。店主は、客のためだけに、早起きしているのでは、ない。ただ、いいパンを、焼...
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道を聞かれて

その老人は、耳が、遠かった。道を聞かれても、よく聞き取れない。それでも、誰かが道に迷っていると、必ず、立ち止まった。聞こえないなりに、何度も聞き返し、地図を描き、ときには、途中まで、一緒に歩いた。「悪いねえ、耳が遠くて」そう言いながら、決し...
灯火

雨の日、バス停に、傘を持たない女子高生がいた。隣に立っていた、見知らぬ会社員の男が、少し迷ってから、自分の傘を、差し出した。「これ、使いなさい」女子高生は、戸惑った。「でも、あなたが……」「私は、走れるから」男は、鞄を頭にのせて、雨の中を、...
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けんか

隣どうしの、ふたりの男がいた。何が原因だったかは、もう、誰も覚えていない。とにかく、二十年、口をきかなかった。道で会えば、目を、そらす。ある冬、片方の男が、雪で足を滑らせて、動けなくなった。見つけたのは、もう片方の、男だった。男は、ためらわ...
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つけといて

丘の途中の、小さな店。ある夕方、ひとりの少年が、パンをひとつ持って、レジの前で、立ちつくしていた。お金が、足りなかった。店主は、少年の顔を見て、少しだけ考えてから、言った。「つけといていいよ」少年は、何度も頭を下げて、店を出て行った。店主は...
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帰ってきた男

若いころ、その男は、町を出て行った。こんな何もない場所には、いられない、と言って。都会で、十年。何があったのかは、多くを語らない。ただ、ある春、男は、帰ってきた。父の店を、継ぐために。出て行ったときの、威勢は、もうなかった。かわりに、静かな...
灯火

夫を亡くしてから、その人は、庭の手入れを、やめなかった。夫が好きだった花を、季節ごとに、植えた。近所の人は、はじめ、気の毒に思った。いつまでも、亡き人の影を、追っているのだろうと。だが、何年か経って、わかった。その人は、過去に、とどまってい...
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朝の挨拶

その男は、誰にでも挨拶をした。郵便配達にも、登校する子どもにも、犬を連れた老婆にも。「おはようございます」ただ、それだけのことだ。ある朝、町に越してきたばかりの若い女が、挨拶を返さなかった。警戒していたのだろう。知らない人に声をかけられたら...
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雪かきの音

冬の朝、まだ暗いうちから、雪をかく音がする。隣の家の老人だ。八十を、いくつか過ぎている。腰は曲がっているのに、毎朝、自分の家の前と、その先の道までかく。誰に頼まれたわけでもない。向かいの家には、小さな子どもがいる。母親が、子を抱えて、仕事へ...
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