色には、名前がある。
桜色。
藤色。
山吹色。
萌黄色。
栗色。
鼠色。
こうして並べてみると、不思議なことに気がつく。
昔の日本の色の名前には、
花がいて、草がいて、木がいて、土がいて、動物がいる。
では、昔の人は、
色をどこで覚えたのだろう。
おそらく、今のわたしたちとは少し違う。
桜色を知る前に、桜を見た。
藤色を知る前に、藤を見た。
山吹色を知る前に、山吹の花を見た。
先に、世界があった。
そして、その世界を何度も見つめた人間が、
この色を、なんと呼ぼう。
と考えた。
だから、昔の色のせんせいは、
まず、自然だったのではないかと思う。
1.自然が、色を教えていた
自然の色には、揺らぎがある。
同じ桜でも、朝と夕方では違う。
咲き始めの花びらと、
散り際の花びらでも違う。
陽の当たる藤と、
木陰で揺れる藤も同じではない。
若葉は日ごとに濃くなり、
空は一日の中で何度も色を変える。
土も、水も、木も、
ひとつの色だけを持っているわけではない。
植物から色を染め出すときでさえ、
材料や染め方、布や媒染によって、色は少しずつ変わっていく。
つまり、色とは本来、
ここからここまでが桜色です。
と、一本の線を引けるものではなかったのかもしれない。
人は、自然の中にある無数の色の揺らぎを見ながら、
それでも、
これは桜のようだ。
これは藤のようだ。
これは萌え出した若葉のようだ。
と、色を覚えていった。
色の名前とは、
自然を分類するための言葉であると同時に、
人間が自然を見つめてきた記録
でもあったのではないだろうか。
2.人間が、色を作り始める
ところが、近代になる。
日本に、西洋の絵具や化学染料、
新しい印刷技術や色彩に関する知識が入ってくる。
人間は、それまで以上に多くの色を、
安定して、
大量に、
同じような色として、
作り出せるようになった。
ここで、色のせんせいが一人増える。
技術である。
それまで人間は、
植物から色をもらい、
鉱物から色をもらい、
土から色をもらい、
自然の中にある色を取り出していた。
けれど、次第に、
人間自身が、
自然界では簡単には手に入らなかった色を作り、
何度でも再現し、
遠い場所へ運ぶことができるようになる。
色は、
自然の中から見つけるもの
であるだけではなく、
人間が作り出すもの
にもなった。
そして、この変化は、
単に色数が増えたということだけではなかった。
人間は、
「この花に似た色」
ではなく、
「この色見本と同じ色」
を求めることができるようになった。
色は少しずつ、
自然の揺らぎから離れ、
再現できるもの、
共有できるもの、
流通させることのできるものへと変わっていった。
3.街が、色の見本帳になる
さらに、都市が大きくなる。
洋服。
看板。
広告。
建物。
電車。
百貨店。
商品。
人間が作った色が、
街の中にあふれ始める。
ここで、人が色と出会う場所も変わっていく。
昔なら、
藤を見る。
そして、
藤色を知る。
だったものが、
色見本を見る。
洋服を見る。
看板を見る。
広告を見る。
そして、
紫という色を知る。
そのあとで、藤を見る。
という順番も成立するようになる。
これは、小さな違いに見えて、
かなり大きな変化である。
人間は、
自然を見て色を知るだけではなく、
人間が作った色を通して、自然を見る
ようになった。
街そのものが、
ひとつの巨大な色見本帳になったのである。
4.メディアが、色を語り始める
そして、戦後。
映画。
雑誌。
広告。
ファッション。
化粧品。
テレビ。
人は、自分の生活圏には存在しない色まで、
日常的に見るようになる。
ここで、色はもう一度、大きく変化する。
ただ、
「この色がある」
と見せられるだけではなくなった。
色に、
人物がつく。
物語がつく。
商品がつく。
感情がつく。
赤い口紅をつけた女性がいる。
白いワンピースを着た少女がいる。
青い海の前に、爽やかな商品が置かれている。
淡い色の部屋には、
やわらかな生活が描かれている。
色は、ただ「そこにある色」ではなくなる。
商品や人物や物語と結びつきながら、
こういう色を選ぶ人になりませんか。
と、こちらへ語りかけてくるものになる。
ただし、これは、
メディアが真っ赤な嘘を作り、
人間に色の意味を一方的に教え込んできた、
ということではない。
わたし自身、
色彩の象意を、人に伝えることがある。
それは、
色には、人間の感情や振る舞いに働きかける力があると感じているからである。
赤を見ると、
少し力が湧く人がいる。
青を見ると、
呼吸が静かになる人がいる。
白を選ぶことで、
一度すべてを整え直したくなる人がいる。
黒を身につけることで、
外の世界との境界を作る人もいる。
もちろん、
色の意味は、ひとつではない。
文化によっても違う。
時代によっても違う。
その人自身の記憶によっても変わる。
けれど、
人間が長い時間をかけて、
色から何かを感じ取ってきたことまで、
すべて作り話だったとは思わない。
むしろ、
人間は昔から色を見て、
明るい。
怖い。
あたたかい。
冷たい。
強い。
静かだ。
と、感じ続けてきた。
そこから、色の象意は育っていった。
だから、近代以降に起きたことは、
色に意味が生まれたことではない。
色の意味を、誰かが編集し、強調し、大勢の人へ同時に届けられるようになったこと
なのだと思う。
自然の中で、それぞれの人が感じ取っていた色。
文化や宗教の中で、長い時間をかけて共有されてきた色。
そして、
広告や映画や商品によって、新しく意味を与えられた色。
それらが、少しずつ重なっていった。
今では、
どこまでが自然から受け取った意味で、
どこまでが文化から受け取った意味で、
どこからがメディアによって強調された意味なのか、
簡単には分けられない。
だからこそ、
色の意味を否定するのでもなく、
その意味を、そのまま信じ込むのでもなく、
この色を見たとき、わたしはどう感じるのか。
そこへ戻ることが大切なのだと思う。
5.いま、色のせんせいは、手のひらにいる
そして現在。
わたしたちは、スマートフォンを開く。
そこには、
一日では到底見切れないほどの色が流れてくる。
誰かの洋服。
誰かの部屋。
誰かの花。
知らない国の海。
行ったことのない森。
見たことのない夕焼け。
そして、
その横には、色の名前まで添えられている。
くすみピンク。
ラベンダー。
グレージュ。
ミント。
モカ。
テラコッタ。
いまでは、
本物のラベンダー畑を一度も見たことがなくても、
「ラベンダーカラー」を知ることができる。
考えてみれば、
これは、とても不思議なことである。
かつてなら、
ラベンダーを見る。
そして、その色を知る。
だったものが、
いまでは、
ラベンダーカラーを知る。
そして、あとから本物のラベンダーを見る。
という順番にもなり得る。
色との出会いの順番が、
逆になったのである。
自然から、
技術へ。
技術から、
街へ。
街から、
雑誌や映画、テレビへ。
そして、
画面へ。
色のせんせいは、
少しずつ増えてきた。
6.わたしたちは、色を失ったのだろうか
だからといって、
昔の人のほうが色をよく知っていた。
今の人間は、色を見る力を失った。
そんなふうに言いたいわけではない。
むしろ、わたしたちは、
昔なら一生見ることのできなかった色を、
一日のうちに何百、何千と見ることができる。
遠い国の夕焼け。
深い海の青。
砂漠の土。
知らない鳥の羽。
見たことのない花。
色の世界は、
おそらく昔より、ずっと広くなった。
だから、
わたしたちは色を失ったのではない。
色との出会い方を変えた。
のだと思う。
昔、
色のせんせいは、
花だった。
空だった。
土だった。
水だった。
人間は、
世界を見ながら、
その色に名前をつけた。
やがて、
絵具が教えた。
染料が教えた。
街が教えた。
雑誌が教えた。
映画が教えた。
テレビが教えた。
そして今、
手のひらの小さな画面が、
毎日、数え切れないほどの色を教えている。
わたしたちは、
世界を見て、色を知るだけではなくなった。
先に色を教えられてから、
その色を探すように、
世界を見ることも増えた。
それは、
悪いことなのだろうか。
わたしは、そうは思わない。
ただ、
ときどき、
色の名前を忘れて、
目の前のものを見てみたいと思う。
これは、何色だろう。
と。
ピンクでもない。
紫でもない。
ベージュでもない。
誰かが決めた色見本から、
少しだけ目を離して、
自分の目で見る。
すると、
名前になる前の色が、
まだ世界のあちこちに残っていることに気がつく。
色の せんせい は、
誰だったのか。
花だった。
空だった。
人間だった。
街だった。
映画だった。
画面だった。
そして、たぶん、
どれかひとつだけが、
せんせいだったわけではない。
人間は、
その時代、その時代で、
いろいろなものから色を教わりながら、
同時に、
自分自身の目でも色を見てきた。
だから、最後に残るのは、
とても小さな問いなのだと思う。
いま、この色を見ているのは、誰なのだろう。
広告でもない。
色見本でもない。
画面でもない。
最後に色を受け取るのは、
わたしたち自身の目である。
色の せんせい は、誰だったのか。
そして、
これから、誰を色のせんせいにするのか。
それを決めることができるのも、
きっと、
わたしたち自身なのである。
yohaku
わたしは、散歩が好きである。
緑の多い公園を、何時間でも歩く。
そこで、たくさんの色を発見する。緑、深緑、茶色、黄土色、桃色、山吹色、赤。
そこで、やっと呼吸することができる。
わたしは、街のネオンも好きである。
ピカピカ光るネオンの街に、目を輝かせる。
冬に多く見られる、イルミネーションも大好きだ。
人間が作った美しい光の色である。
だが、家路について、ほっと思うことがある。
わたしは、やはり、シティガールではなく、カントリーガールなのだなと。笑
曖昧な色が好きなのだ。
何者でもない、その色たちが、どうしようもなく、好きなのだ。
サーヤ

