序|ドラマという媒体
ドラマ『高校教師』を通して、森田童子に出会う。
わたしが、森田童子の歌を聴くきっかけになったのは、
ドラマ『高校教師』の主題歌だったからだ。
『高校教師』は、1993年にTBS系列で放送されたテレビドラマである。
脚本は、野島伸司。
主演は、真田広之と桜井幸子。
全11話で、
教師・羽村隆夫と、女子高校生・二宮繭との関係を中心に、
「教師と生徒」という社会的に許されにくい関係を描いた作品である。
最終回の視聴率は33%を記録し、
当時、大きな社会的反響を呼んだ。(TBS)
作品のなかでは、
教師と生徒の恋愛だけではなく、
性暴力、家族の問題、自殺など、
人間の内側にありながら、
普段は表に出されにくい問題も描かれている。
現在TBSで配信されている作品紹介にも、
性加害など、不快に感じる可能性のある場面が含まれていることが明記されている。
そして、このドラマの主題歌として使われたのが、
森田童子の『ぼくたちの失敗』だった。
『ぼくたちの失敗』は、
ドラマのために作られた曲ではない。
森田童子が活動していた1970年代に生まれた歌が、
十数年の時間を越えて、
1993年のドラマのなかで再び流れたのである。
このことが、わたしにはとても面白い。
1993年。
日本は、バブル経済が崩壊した後にあった。
経済企画庁の当時の経済白書でも、
1992年から1993年前半の日本について、
景気の低迷が長引き、
バブル崩壊の影響が社会に浸透していた時期だったと記されている。(内閣府ホームページ)
華やかだった1980年代が終わり、
この先も、
今までと同じように生きていけるのだろうか。
そんな不透明さが、
社会のなかに少しずつ広がっていた時代でもあった。
一方で、
『ぼくたちの失敗』が生まれた1970年代には、
また別の時代の空気があった。
つまり、
1970年代を生きた森田童子の歌が、
1993年を生きる人間たちの物語に重ねられた。
時代は違う。
登場人物も違う。
それでも、
うまく生きられなかったこと。
誰かを愛したこと。
取り返せなかった時間。
若さ。
孤独。
そして、失敗。
そうしたものは、
時代を越えて残った。
だからわたしは、
ドラマ『高校教師』を観ながら、
森田童子の歌を聴くことになった。
そして、
ドラマを知るために森田童子を聴いたはずなのに、
いつの間にか、
森田童子その人の言葉を、
もっと知りたくなっていた。
一|一九七〇年、高校をやめた
森田童子は一九五二年(一九五三年とする資料もある)一月十五日、東京に生まれた。高校生だったのは、日本中の学校が揺れていた時期にあたる。
大学の紛争は一九六九年一月の東大安田講堂で頂点を越えたが、その波は高校にも及んでいた。高校紛争がもっとも多かったのは一九六九年九月から翌一九七〇年三月までで、三十五都道府県、百七十六校、二百八件が記録されている。集会やデモだけでなく、卒業式が止められたり、校舎がバリケードで封鎖された学校もあった。
一九六九年十月三十一日、文部省は初等中等教育局長の名前で通知を出し、高校生の政治活動は教育上望ましくない、とした。
森田童子が高校を中退したのは、その翌年、一九七〇年である。のちに本人が語った経歴によれば、中退したあとは「暇にまかせてふらふらと旅に出る」日々だった。
同じころ、日本の高校進学率は上がり続けていた。一九七〇年におよそ八十二パーセント、一九七四年には九十・八パーセントとなり、はじめて九割を超える。大学・短大への進学率も一九七五年にはおよそ三十八パーセントに達した。高校に行くことが当たり前になっていく、その手前で、彼女は学校から降りている。
二|一九七二年夏、葉書が届いた
歌をつくりはじめた時期を、本人ははっきり語っている。一九七二年の夏、友人の死を知らせる葉書が届いた。それをきっかけに、通り過ぎていった十代を振り返って歌い始めた、という。その友人を想ってつくった曲が、のちのデビュー曲「さよならぼくのともだち」になった。
一九七二年という年には、二月にあさま山荘事件があり、続いて連合赤軍の事件が明るみに出た。五月に沖縄が返還され、九月に日中国交正常化。学生運動が終わっていく音と、戦後がひとつの区切りを迎える音とが、同じ年に鳴っている。
ここで書き落とせないことがひとつある。森田童子は、自分の歌を身の上話として読まれることを、はっきり否定していた。取材に答えて「私の歌は"思い込み"なんだよね」と語り、歌詞は実際の体験そのままではなく、願望を重ねたものだと述べている。つまり彼女の歌は、彼女の日記ではない。
三|歌が置かれた場所
一九七三年、彼女は西荻窪ロフトのステージに立つ。ライブハウスでの出発点だった。一九七五年十月二十一日にシングル「さよならぼくのともだち」でレコードデビューし、翌十一月にアルバム『GOOD BYE グッド・バイ』を出す。オリコン最高四十四位。デビューの年は、四月にベトナム戦争が終わった年でもある。
ステージでも、レコードのジャケットでも、彼女はサングラスをかけ、男性的な服装のままだった。素顔を見せたことは、一度もない。
翌一九七六年十一月、シングル「ぼくたちの失敗」とアルバム『マザー・スカイ』。一九七七年に『A BOY ボーイ』(最高五十二位)。一九七八年十一月には、東京・文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂で録音されたライブ盤が出る。丹下健三の設計した、コンクリートの大きな聖堂である。
一九八〇年、彼女はテントを張ろうとした。十一月二十日から二十四日まで、五百人が入る黒いテントでの公演「夜行」。当初は都内の公園や国鉄の用地に設置を掛け合ったが断られ、いったん許可の出た都立青山公園でも許可が取り消された。最終的に開かれたのは、池袋の三越の裏にあった空き地だった。八日後には札幌でも歌っている(この日の実況録音は、二〇二四年になってCDになった)。
準備の過程を追ったドキュメンタリー番組が、当時の東京12チャンネルで放送されている。番組の中で彼女は、数年後には東京にテントを張ることは不可能になるだろう、自分たちのコンサートが、そして歌が消えていくさまを見てほしい、という意味のことを静かに語っている。
歌われた場所を並べると、大きな会場はひとつもない。ライブハウス、聖堂、空き地のテント、小さな劇場。そして、借りられなかった公園。
四|「ぼくたち」とは誰だったのか
彼女はしばしば全共闘の歌い手と呼ばれてきたが、生前に交流のあった劇作家・高取英は、それを慎重に否定している。全共闘の運動がもっとも激しかったころ、彼女はまだ高校生だった。セクトに入っていたという話も、高校全共闘として活動していたという話も、高取は聞いていないという。
つまり彼女は、運動をつくった側の世代ではない。その少しあと、片づけられていく光景のほうを見ていた十代である。
その世代には、当時いくつかの名前が外側から与えられた。一九七〇年ごろから使われはじめた「三無主義」——無気力・無関心・無責任。のちに「しらけ世代」とも呼ばれた。学生運動が退いたあと、政治に関心を示さない若者たち、という意味で使われた言葉である。
上の世代には闘争の記録が残り、下の世代には消費の記録が残った。そのあいだにいた十代について残っているのは、外から貼られた三つの「無」だけに近い。何を怖がっていたのか、何を待っていたのか、誰を好きだったのかは、統計にも年表にも載っていない。
森田童子が歌の中でくり返し使った一人称は、「ぼく」だった。彼女は女性で、歌っているのは女性の声である。それでも一人称は「ぼく」であり、歌の宛先は「ぼくたち」だった。
五|一九八三年、東京にテントは張れなくなる
一九八二年に『夜想曲』、一九八三年十一月三十日に『狼少年 wolf boy』。これが最後のアルバムになった。同年十二月上旬に吉祥寺の前進座劇場で六日間、十二月二十五日と二十六日に新宿ロフト。それを最後に、彼女は人前に出ていない。三十一歳だった。引退を宣言してはいない。ただ、出てこなくなった。
活動はおよそ八年間、アルバム七枚(うちライブ盤一枚)とシングル四枚である。
同じ一九八三年には、東京ディズニーランドが開園し、家庭用ゲーム機のファミリーコンピュータが発売されている。三年前に彼女がテレビで言った、テントを張れなくなる時代のほうへ、東京は実際に進んでいった。
六|一九九三年、名前のなかった世代がもう一度聴いた
この曲を選んだのは、脚本を書いた野島伸司である。彼は一九六三年、新潟県柏崎市の生まれで、高校生のとき同級生に誘われて入ったライブハウスで森田童子の歌を聴き、強く印象に残っていたという。二十年近く前に東京の小さな箱で歌われたものが、新潟の高校生にいったん預けられ、その人の手で全国に戻された、という道すじになる。
「ぼくたちの失敗」が主題歌に使われたとき、発売から十七年、活動休止から十年が経っていた。CDシングルは百万枚に迫る売れ方をし、廃盤だったアルバムがCDで復刻され、彼女を知らなかった世代が新しく聴き手になった。それでも本人は取材に応じず、人前にも出なかった。
一九九三年という年は、五月にJリーグが開幕し、夏は記録的な冷夏で米が足りなくなり、八月に細川内閣が発足して五十五年体制が終わった年でもある。
その後、二〇〇三年に新作ドラマで再び同じ曲が使われた際、彼女は自宅でピアノとギターとハーモニカを自分で弾き、二十年ぶりに一曲だけ録音している。それが最後の作品になった。
二〇一八年四月二十四日未明、心不全のため亡くなった。遺族から日本音楽著作権協会に連絡があり、六月一日発行の会報に訃報が載ったことで、世の中は彼女の死を知った。公表するつもりはなかったと報じられている。
結び
1.インターネットという媒体
わたしは、最近まで、インターネットという媒体が優れた道具であることは認めながらも、どこかで、とても強大で危ないものだという思い込みが大きかったように思う。
理由は単純で、人間の隠しているものや、踏み込まれたくない柔らかい部分を暴き、晒し、ときには人をこの世から消してしまうほどの力を持っているからだ。
本当に、恐ろしいと思っていた。
だが、同時に、使用しなければならない事態にも追い込まれていた。
アプリ化する機能。
お金の支払い。
情報を収集する必要性。
そして、買い物。
この買い物に関しては、欲しいものを、自分の身体を使ってあちこち探し回らなくても済むことに、本当に完敗であった。笑
だから、わたしは、インターネットは包丁と同じであると思うことにした。
包丁も、間違えた使い方をすると、自分の指を切ってしまったり、人を傷つけたりする危険性さえある。
だが、料理をするときには必要に迫られるし、使い方さえ心得ていれば、美味しい料理が完成する。
だから、インターネットを使用して生活することを、やっとのことで、わたしは、わたし自身に許可することができたのだと思う。
おかげで、インターネットで、森田童子の歌をたくさん聴くことができる。
とても嬉しい。
2.人相学と固有性の輪郭
最初、インターネットで森田童子の歌を検索したとき、大きなカーリーヘアの頭と、顔の半分ほどもある大きなサングラス姿に驚いた。
あれ?
男性かしら……。
でも、わたしが聴き惚れていた森田童子の繊細な歌声は、男性の身体から現れた声には聴こえなかった。
また、彼女について調べてみると、やはり性別は女性であった。
わたしは、人相学を学んでいる。
人相学者として彼女の容姿を見たとき、わたしは、こう思った。
彼女は、「女性である」ということを、表現として扱いたくないのだな、と。
むしろ、自分という人間の輪郭そのものは、あまり残したくないのだ、と。
彼女が残したいものは、声と詩とメロディーなのだ。
そう、わたしは受け取った。
そして、彼女の声を聴いていて思う。
彼女は、歌を歌うことで、その時代を生きる意味につながっていたのではないか。
もう少し踏み込むと、歌を歌わなければ、生きていられなかったのではないか。
これは、わたしの推測に過ぎない。
わたしは、いつも絵の展覧会や写真展、SNSを見ながら、一つの問いを持つ。
わたしたち人間は、【労働だけ】では、生きられないのではないだろうか。
【労働】は、経済を生み出し、自分ではない誰かのために【役に立つ】ことを求められる。
だが、絵や写真や歌、詩、その他の表現は、その人が、この世界に生を受けたからこそ、現れることのできたものだ。
わたしは、俺は、ここにいる。
ここで、生きている。
その固有性が、物体として、振動として、あるいは目には見えない価値として現れる。
それが、芸術なのではないだろうか。
そして、その生き様は、顔面というキャンバスの上に、しっかりと刻まれる。
身体から発せられる熱気として現れる。
それが、わたしの考える人相学である。
サーヤ
絵:Luna SĀYA(写真ではなく、絵として描いたものです)
参考:朝日新聞土曜版be「うたの旅人」二〇一〇年五月二十二日/小林哲夫『高校紛争 1969-1970』/文部科学省 学校基本調査(進学率)/東京外国語大学 学園紛争アーカイブ/森田童子オフィシャルサイト/TBS『高校教師』公式サイト/内閣府(経済白書)

