カーネーション——赤と白に、分けられていた頃

草花研究

カーネーションは、ナデシコ科ナデシコ属の花である。

学名を Dianthus caryophyllus という。
Dianthus は、ギリシャ語の dios(神)と anthos(花)が合わさった言葉。つまり、「神の花」。

caryophyllus は、「丁子(クローブ)のような」という意味である。
実際に、この花には香りがある。甘さの奥に、少しだけ薬のような、締まった匂いが混ざる。
日本では、その香りからジャコウナデシコ(麝香撫子)という和名がついた。
オランダセキチク(阿蘭陀石竹)とも呼ばれる。オランダ経由で入ってきた石竹の仲間、という意味である。

原産は、南ヨーロッパから地中海の沿岸。

花をよく見ると、花びらの縁が、細かくギザギザしている。
はさみで切ったのではなく、はじめからそうなっている。ナデシコ科の花は、みなこの縁を持っている。

そして、萼(がく)が長い。
筒のように伸びて、花びらの根元を、しっかりと包んでいる。
だからカーネーションは、花びらをたくさん重ねても、崩れない。
下から支える筒があるから、上で開ける。

野生のカーネーションは、花びらが五枚しかない。
一重の、素朴な花である。

いま花屋に並ぶ、花びらの何十枚も重なったカーネーションは、
花がひとりでにそうなったのではない。

花びらの多い株を選んで、種を採る。
育った中から、また多いものを選ぶ。
人が何百年も、それを繰り返した。

あの豊かさは、花が選んだ形ではなく、人が選ばせた形である。

母の日にカーネーションを贈る風習は、アメリカから来た。
1908年、アンナ・ジャービスという女性が、亡くなった母を偲ぶ会で、白いカーネーションを配った。それが始まりとされている。

はじめに配られたのは、白だった。
母を亡くした人の花として。

やがてこの風習が広がったとき、色が分けられた。

 母が健在の子どもは、赤いカーネーション。
 母を亡くした子どもは、白いカーネーション。

日本には、明治の終わり頃に伝わった。大正に広がり、1937年、森永製菓の「母の日大会」で一般に知られるようになる。1947年、五月の第二日曜日が、正式に母の日となった。

この赤と白の区別は、のちに、やめられた。
「母を亡くした子どもの心を傷つけるのではないか」という声が上がったからである。
いまは、色を分けない。

このことを、私は『三丁目の夕日』で読んだ。

作者は、西岸良平(にしぎし りょうへい)
1974年から、小学館『ビッグコミックオリジナル』で『夕焼けの詩 —三丁目の夕日—』を描き続けている。五十年を超える連載である。

舞台は、昭和三十年代の夕日町三丁目。
ここには、事件らしい事件は、あまり起こらない。
起こるのは、隣の家の煮物の匂いや、子どもの喧嘩や、親の意地や、誰かが黙って引き受けた損のような、そういうものである。

その中に、カーネーションの色の話があった。

赤を持った子どもと、白を持った子どもが、同じ教室に並ぶ。

これを、どう見ればいいのか。
私は、まだ決められずにいる。

寛容だった、とも言える。
母がいないという事実を、隠さなかった。無かったことにしなかった。
その子は、白い花を持つことを許されていた。悼むことを、人前で、許されていた。

残酷だった、とも言える。
言わなくてもいいことを、花の色が、教室じゅうに言ってしまう。
子どもは、自分の花の色を、選べない。

どちらか一方に決めてしまうと、何かがこぼれ落ちる。

いま私たちは、色を分けない。
それは、優しさである。
同時に、見えなくすることでもある。

見えなくなったものは、無くなったわけではない。
赤を持てない子どもは、いまもいる。
ただ、その子は、赤い花を持って、黙っている。

昔が良かった、と言いたいのではない。
今が正しい、と言いたいのでもない。

人が誰かを傷つけまいとするとき、その優しさは、たいてい「見えなくする」というかたちを取る。
そして、見えなくされたものをどう扱うかという問いは、いつも、残される。

カーネーションの萼は、花びらを下から支えている。
支えているものは、外からは見えない。
見えないが、それが無ければ、花は開かない。

🌙 Luna SĀYA

※カーネーションには、犬や猫が口にすると下痢や嘔吐を起こすことがある成分(サポニン)が含まれています。症状は比較的軽いものとされていますが、飾るときは猫や犬の届かない場所に置いてください。異常があれば動物病院へ。

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