同じ「好き」という言葉が——ある関係では愛になり、ある関係では消費になる。 その違いを、どこで見分けるのか。 長い間、私はその境界を探してきた。
人相を読み、手相を見て、時代を研究しながら。そして今、一つの答えに近いものを持っている。 消費は、相手が「何をくれるか」を見ている。愛情は、相手が「何者であるか」を見ている。 消費する関係では、相手は「手段」になる。 身体をくれる相手。時間を埋めてくれる相手。自分を特別に感じさせてくれる相手。承認をくれる相手。 相手そのものではなく、相手が自分に与えてくれる「何か」を、求めている。
だから——その「何か」が得られなくなると、関係は終わる。消費の関係に悪意はない場合が多い。ただ、相手を人間として見ていない。 愛情のある関係では、相手は「目的」になる。
この人を知りたい。この人の痛みを、もう少し理解したい。この人の喜びを、一緒に感じたい。 相手が自分に何かを与えてくれるからではなく——この人が、ここにいることそのものが、意味を持っている。 令和の時代、消費と愛情の境界は、かつてより曖昧になっている。 選択肢が増えた。出会いが簡単になった。関係を終わらせることも、かつてより容易になった。 昭和の時代、男女は身体で近づいた。
その分、関係は深くなることも、傷つくことも、粗野になることもあった。だが少なくとも、相手を「選択肢の一つ」として処理する感覚は、薄かった。 平成・令和と時代が進むにつれ、恋愛は「市場」に近くなった。自分を商品として磨き、相手を品定めし、コストパフォーマンスで関係を選ぶ。
その構造の中で、消費と愛情の区別は——ますます、見えにくくなっている。 問いは単純だ。 あなたは今、目の前の人の「何をくれるか」を見ているか。
それとも、「何者であるか」を見ているか。 そして——あなたは今、相手にとっての「手段」になっているか。それとも「目的」になっているか。
この問いに、すぐ答えが出なくていい。ただ、持ち続けることが——消費ではない関係への、最初の一歩だと思っている。。

