女が「選ばれたい」と思うこと——それは弱さではなく、人間の根だ

男女論

女が男に選ばれたいと思う。この感覚を、時代が否定しようとしている。「自分で選べ」「選ばれるな、選べ」——そういう言葉が増えた。自立した女性像が称賛され、「選ばれたい」という感覚を持つことが、どこか古くて弱いことのように扱われる空気がある。

私は、それに違和感を持ち続けている。誰かに選ばれたいという感覚は——「この人に、私の存在を認めてほしい」という欲求だ。それは弱さではない。

人間が人間である限り、持ち続ける根の部分だ。人間は、一人では自分の価値を完全には確認できない。誰かの目を通して、自分の存在が映ることで——初めて「私はここにいる」と感じられる生き物だ。選ばれたいという感覚は、その根から来ている。恥じるものでも、克服すべきものでもない。

だが——「誰でもいいから選ばれたい」になるとき、何かがずれる。自分の存在確認を、特定の誰かへの愛着ではなく、「選ばれる」という行為そのものに求めてしまう。

だから、選んでくれる人ならば誰でもいい、という状態になる。その状態は——相手を「自分を選んでくれる機能」として扱っていることになる。

これもまた、消費だ。可愛がられたい、大切にされたい——その感覚も、人間の根にある。誰かに丁寧に扱われることで、自分の存在が大切なものだと感じられる。

その感覚は、何も恥ずかしくない。ただ——可愛がってもらうために、自分を小さくし続けるとき——何かが壊れていく。相手に可愛がられるために、本当の自分の意見を引っ込める。相手の機嫌を損ねないために、感じていることを言わない。

その積み重ねの中で、自分の尊厳が、少しずつ削れていく。選ばれたいと思いながら、尊厳を保つことはできる。それは——「私はこういう人間だ」という軸を、手放さないことだ。選ばれたいと思いながらも、どんな形でも選ばれればいいとは思わない。可愛がられたいと思いながらも、自分を偽ってまで可愛がられたいとは思わない。

その線を持ち続けることが——人間として選ばれる、ということの本当の意味だと思っている。。

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