誰かを、自分のものにしたいと思う。
独占したい。離したくない。この人だけを見ていたい。
男が女に感じること。女が男に感じること。どちらにもある。
この感覚を、醜いと言う人がいる。独占欲は悪いものだ、と。支配しようとしている、と。
私は、そう思わない。
近づきたいという衝動は、生の力だ。この人に触れたい、この人だけと時間を持ちたいという感覚は——孤独ではなく、生きたいという意志の別の形だ。
本能は、悪くない。
問題はそこではない。
同じ「自分のものにしたい」という衝動が——ある時は愛になり、ある時は消費になる。ある時は「あなたを知りたい」になり、ある時は「あなたを使いたい」になる。
その境界は、どこにあるのか。
人相を読んでいると、見えてくることがある。「近づきたい」が「消費したい」に変わった人の顔には、ある共通の痕跡が刻まれている。それは罪の痕跡ではない。傷の痕跡だ。
傷ついた人間は——他者を壊すことで、自分の存在を確認しようとすることがある。支配することで、自分に力があると感じる。それは男も女も、同じ構造だ。
だが——その回路が動くとき、相手の尊厳は削られていく。
「自分のものにしたい」という本能は、醜くない。ただ、その本能がどこへ向かうかは——その人が、相手をどんな存在として見ているかで決まる。
手段として見るのか。魂として見るのか。
その問いを持ち続けることが——本能を、愛に変える唯一の道だと思っている。
