生きている時間を、描いた人 ——ジュール・パスキンのこと

画架に向かう画家の背中と、彼が描いた女性たちの絵。手前には素描帳とパレットと筆。遠くの小道を、ひとりの女性が歩いている。 画家研究

エコール・ド・パリの画家、ジュール・パスキン(一八八五〜一九三〇)。
ブルガリアに生まれ、ルーマニアで育ち、ウィーンとミュンヘンで学び、パリで描き、アメリカ国籍を取って、パリで死んだ。

四十五年の生涯のあいだ、彼が描きつづけたのはほとんど女性だった。その多くは、モデルとして雇われた娘たちと、娼館で働く女性たちである。

ここでは、彼の生まれから順に、その生涯と、彼が生きた時代の制度を辿る。


生まれ ——ヴィディン、一八八五年

一八八五年三月三十一日、ブルガリア北西部の街ヴィディン。ドナウ川に面した、国境の町である。

本名をユリウス・モルデカイ・ピンカスという。
父マルクス・ピンカスは穀物商で、「マルクス・ピンカス商会」を営んでいた。母ソフィーはセルビア系イタリア人の家の出。一家はセファルディム(スペイン系)のユダヤ人で、家のなかではユダヤ・スペイン語が話されていた。

子どもは十一人。パスキンはその八番目にあたる。

幼少期 ——ブカレストへ

一八九二年、七歳のとき、一家はルーマニアの首都ブカレストに移る。ここが彼の育った街になった。

父の家は裕福な商家である。継ぐべき家業があり、彼はその八番目の子どもだった。

児童期 ——寄宿学校の六年

一八九六年から一九〇一年まで、十一歳から十六歳までを、彼はウィーンの寄宿学校で過ごしている。中等教育の六年間である。

家族と離れ、生まれた土地からも、家のなかの言葉からも離れた場所で、少年期を過ごした。

青年期 ——家を出る

学校を終えてブカレストに戻った彼は、父の商社を手伝いはじめる。十五歳のころにも一度、父の会社で働いたことがあったと伝えられている。

そのころ、彼は町の娼館に出入りするようになった。そこで描いた素描が、彼のいちばん早い時期の絵として伝えられている。

この出入りが父との対立を生み、一九〇二年、十七歳で家を出た。

この挿話は伝記のなかでよく語られるもので、細部は資料によって食い違う。確かなのは二つ。彼が絵を描きはじめた最初の場所のひとつが娼館だったこと。そして、それが父と決裂する理由になったこと。

彼が最初に絵に描いた人たちは、この先も、生涯にわたって彼の絵のなかにいつづける。

修業時代 ——ウィーン、ミュンヘン、そして名前

家を出たあと、彼はブダペスト、ウィーン、ミュンヘン、ベルリンで美術を学んだ。

一九〇三年、十八歳でミュンヘンのモーリッツ・ハイマンの画塾に入る。この街で、パウル・クレー、アルフレート・クビーン、ワシリー・カンディンスキーと接点を持った。

その間、新聞や雑誌に挿絵を投稿しつづける。作家グスタフ・マイリンクに認められ、一九〇五年、二十歳でミュンヘンの風刺雑誌『ジンプリチシムス』の専属挿絵画家となった。これで彼は、絵の稼ぎで食べていける人間になる。

このとき、彼は名前を変えている。

父が、ピンカスという家の名を風刺雑誌の絵に載せられることを嫌ったからである。
Pincas(ピンカス)の綴りを並べ替えて、Pascin(パスキン)。父の許しを得たうえでの改名だったと伝えられている。

家の名を隠すために作った名前で、彼は一生を通した。

パリ ——一九〇五年十二月

一九〇五年十二月、パリに移る。モンパルナス駅に着いた彼を、カフェ・ドームに集まる国際的な画家・作家たちが出迎えた。彼らは「レ・ドーミエ(ドームの連中)」と呼ばれていた。

ここから、彼は油彩に本格的に取り組みはじめる。

  • 一九〇七年 パリの画家エルミーヌ・ダヴィッドと出会う。同じ年、ベルリンのパウル・カッシーラー画廊で最初の個展。
  • 一九〇八年 マティス塾に学ぶ。ルーヴルに通い、十八世紀の画家たちを見た。
  • 一九一三年 ニューヨークのアーモリー・ショーに十二点を出品。

恋 ——二人の女性のこと

パスキンの生涯を語るとき、必ず二人の女性の名前が出てくる。
どちらも「ミューズ」という言葉で片づけられてきた人だが、二人とも、自分の仕事を持った職業人である。

エルミーヌ・ダヴィッド(一八八六〜一九七〇)

パリ生まれ。十六歳でエコール・デ・ボザールに入り、のちにアカデミー・ジュリアンに学んだ。画家、細密画家、版画家。女性画家・彫刻家によるサロンの常連出品者で、パスキンと出会った一九〇七年の時点で、すでに若手として世に出ていた人である。

二人はモンパルナスとモンマルトルのアトリエでともに暮らし、第一次大戦でアメリカに渡り、一九一八年、ニューヨーク市庁舎で結婚した。立会人は画家のマックス・ウェーバーとモーリス・スターン。

一九二〇年、彼女はパリに戻り、モンマルトルに自分のアトリエを持つ。翌一九二一年、パスキンとの関係は終わった。
彼女はその後も描きつづけ、一九六五年まで制作を続けた。亡くなったのは一九七〇年十二月一日である。

リュシー・クローグ(一八九一〜一九七七)

本名セシル・ヴィディル。イシー=レ=ムリノーの生まれで、父はフランス人、母はスイス系ドイツ人。裕福な家ではない。

一九〇八年ごろからモデルとして働きはじめ、一九一一年からは夫となるペール・クローグとともに北欧で舞踊の舞台に立ち、一九一五年にはコペンハーゲンで人形と手描きの絵のスカーフを発表している。その後もデッサンとろうけつ染めを続けた。描かれる側であると同時に、作る側の人だった。

パスキンと出会ったのは一九〇九年ごろ。一度は恋人同士になったが、彼がアメリカにいた六年のあいだに、彼女はノルウェーの画家ペール・クローグと結婚する(一九一五年)。息子のギーが生まれた。

パスキンが帰国した一九二一年から、二人はふたたび長い関係に入る。
リュシーはペールとの婚姻を解かなかった。息子をパスキンの酒から遠ざけるためだった、と伝えられている。

アメリカ ——一九一四年から一九二〇年

一九一四年十月三日、ブルガリアの兵役を避けるため、ロンドンからアメリカへ発つ。十月三十一日、エルミーヌが後を追って渡った。

六年間の多くを、彼はアメリカ南部で過ごしている。キューバ、チャールストン、ニューオーリンズ、タンパ。

一九二〇年九月、アルフレッド・スティーグリッツらの後押しでアメリカ国籍を取得し、まもなくパリに戻った。

ブルガリアに生まれ、ルーマニアで育ち、ウィーンとミュンヘンで学び、フランスで描いた人が、アメリカ人になった。彼はどこの国の人でもあり、どこの国の人でもなかった。

モンパルナスの王子 ——一九二〇年代

パリに戻ったパスキンは、モンマルトルに居を定める。「モンパルナスの王子」と呼ばれたのはこの時期である。

自宅で大きなパーティーを何度も開き、集まった者たちの勘定をすべて自分で払った。絵はよく売れた。そして金は、そのたびにすぐになくなった。カフェ・ドームやロトンドに、モデルの娘たちを連れて現れた。

ヘミングウェイは『移動祝祭日』に「パスキンとドームで」という一章を書いている。一九二三年の夜のことである。彼はパスキンを、「当の素晴らしい画家その人よりも、九〇年代のブロードウェイの登場人物のように見えた」と記した。

「王子」と呼ばれる暮らしの裏側で、彼は酒を離せなくなっていた。憂鬱と飲酒のことは、どの伝記にも記録されている。


娼婦制度のこと ——フランスの公娼制度

パスキンが描いた女性たちの多くは、当時のフランスの制度のなかで働いていた人たちである。彼の絵の前に立つとき、この制度がどういうものだったかを知っておくことは、たぶん無駄ではない。

フランスでは十九世紀初めから一九四六年まで、公娼制度(réglementarisme=規制主義)が敷かれていた。

登録

娼婦として働く女性は、警察に登録することを求められた。登録した女性は「fille soumise」——制度に「服した女性」と呼ばれ、カード(carte)を持たされた。

名簿に載るのは易しく、そこから抜けるのは難しかった。登録せずに働く女性は「insoumise」=「服さない女性」と呼ばれ、処罰の対象になった。

娼館

公認された娼館は「maison de tolérance(黙認の家)」あるいは「maison close(閉じた家)」と呼ばれた。名前のとおり、窓は鎧戸で閉ざされ、営業中は赤い灯がともった。

経営するのは「tenancière」と呼ばれる女主人と、その下の「sous-maîtresse」。

住み込みで働く女性は、自由に外出できないことが多かった。食事も、寝る場所も、着るものも館から与えられ、その代金は借りとして帳簿に積み上がっていった。積み上がった借りは、そこを出られない理由になった。

パリの公認館は、十九世紀半ばにおよそ二百軒。世紀の終わりには六十軒ほどに減り、そのぶん、公認されない店が増えている。

診察

登録した女性には、月に一度の健康診断が義務づけられた。梅毒の広がりを抑えるためである。行き先は「dispensaire de salubrité(衛生診療所)」。

この診察について、女性たちが残した言葉が記録に残っている。客をとることよりも、こちらのほうが屈辱だった、と。

風紀警察

制度を運用したのは「Brigade des mœurs(風紀取締班)である。逮捕はしばしば恣意的だった。捕まった女性が送られる先のひとつが、監獄と病院を兼ねたサン=ラザールだった。

終わり

一九二六年、フランスに公娼制度の廃止を求める連盟がつくられる。イギリスのジョゼフィン・バトラーの運動の流れを汲むものだった。

制度が終わるのは一九四六年、「マルト・リシャール法」による。すべての公認館が半年以内に閉じられた。パスキンが死んでから、十六年後のことである。

つまり、彼が生きて描いていた一九二〇年代は、この制度がまだそのまま動いていた時代である。

そしてモンパルナスには、もうひとつのことがあった。
画家のモデルという仕事と、この制度のなかで働くことの境目は、実際にはあいまいだった。同じ人が両方をしていることも、時期によって行き来することもあった。パスキンが描いた娘たちは、そのあいだのどこかにいた人たちである。

制度は人を分類し、名簿に載せ、番号で呼ぶ。
名簿に載っていたのは、一人ひとり、別の人生を持った人間である。


彼が描いたもの

一九二〇年代のパスキンが描いたのは、多くの場合、こういう場面だった。

客を待っている女性。
ポーズが終わるのを待っているモデル。

営みそのものではない。その合間である。
誰かに見られるための時間ではなく、誰にも用のない時間。彼が絵にしたのは、そちらのほうだった。

色は、真珠のような光沢を持っている。灰、ピンク、黄土、すみれ色をおびた青。薄く、透けて、うっすらと虹色に揺れる。

線は、輪郭をきっちり閉じない。体のかたちをぼんやりと示したところで止まる。
批評の言葉では、この光は「体の実際よりも、心の状態を映す光」と言われてきた。

白い肘掛け椅子に腰かけた少女。紫の服を着て、膝の上に小さな赤い花束を持っている。白い靴下に、白いリボンの結ばれた白い靴。
ジュール・パスキン《花束をもつ少女》1925〜26年、油彩・カンヴァス、80.0×64.0cm、北海道立近代美術館蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

一九二五〜二六年の一枚。紫の服の少女が、白い椅子に腰かけて、膝の上に小さな花束を持っている。白い靴下に、白いリボンを結んだ白い靴。
腕と脚の輪郭が、閉じないまま止まっているのが見える。

モデルの名前も残っている。アイシャ・ゴブレ——一九一一年、一年ほど彼の専属モデルを務めた人。ミミ・ローラン。ほかにも、多くの娘たちがいた。

一九三〇年六月二日

一九三〇年六月二日、パスキンはモンマルトルのクリシー大通り三十六番地のアトリエで、自ら命を絶った。四十五歳だった。
大きな個展の開幕を、目前にした日である。

壁には「Adieu Lucy(さよなら、リュシー)」の一行が残されていた。
遺体を見つけたのは、三日後、リュシーである。

遺言は、遺産をエルミーヌとリュシーに等分に遺すものだった。

六月七日、葬列が出た。
アトリエからサン=トゥアン墓地まで、およそ五キロ。歩いたのは画家仲間だけではない。彼が通った店のギャルソンやバーテンダーが何十人も加わり、集まった人は数千人にのぼった。

その日、パリじゅうの画廊が扉を閉め、喪に服した。

一年後、遺骨はモンパルナス墓地に移された。

そのあとの、二人

一九三二年、リュシー・クローグはサン=トーギュスタン広場に自分の画廊を開く。当時のパリでは数少ない女性の画商だった。マルセル・グロメール、オスカー・ココシュカ、シュザンヌ・ヴァラドンらを扱っている。

彼女はパスキンの遺産をエルミーヌとともに管理し、生涯にわたってエルミーヌを支えつづけた。

ひとりの男をめぐって並べられがちな二人は、その男がいなくなったあと、四十年以上、互いを支えて生きた。


なぜ、わたしがパスキンに惹かれるのか

わたしは、自分の人生ももがき苦しみ、一人の人間として今日も空気を吸い、生きている。
同じもがく人を、わたしは笑わない。

苦難な状況でも日々、自分の人生を生きようとする人間に、わたしは敬意を持っている。
知恵がないから、学がないから、金がないから。そんな理由で人間性まで貴める書き方に、わたしは悲しみを覚える。

パスキンは、娼婦をよく描いた。
だが彼には、蔑みの眼差しがない。描く人への、温かい眼差しがある。

そこには、わたしが大切にしている生き方がある。
苦しみにある人、困難な状況に置かれている人に対しての、情。慈しみ。温かさ。
その情が、筆致に漏れている。

だから、パスキンの絵が好きだ。

パスキンの展覧会があると聞くと、いつも足を運んでしまう。
あなたに、会いたくなってしまうのだ。


日本で会えるパスキン

作品の画像は、上に載せた《花束をもつ少女》のほかは置いていない。所蔵館のページで見てほしい。
常設で必ず出ているとはかぎらないので、行く前に確かめるのがよい。

  • 北海道立近代美術館(札幌)——開館準備期の一九七三年ごろからエコール・ド・パリの作品を集めはじめ、その数は三百八点(二〇二六年三月現在)。その中心に置かれてきた画家がパスキンである。《花束をもつ少女》(一九二五〜二六年、油彩・カンヴァス)ほか。
  • ポーラ美術館(箱根)——《果物をもつ少女》ほか。
  • ひろしま美術館(広島)——モディリアーニ、シャガール、藤田嗣治、キスリングらとともに所蔵。

ひとつ、書き添えておく。
北海道立近代美術館があるのは札幌の北一条西十七丁目。そこから東へ歩いて三分のところ、北二条西十五丁目に、北海道立三岸好太郎美術館がある。

日本でいちばんパスキンに会える場所と、三岸好太郎に会える場所は、歩いて三分の距離にある。


yohaku

ジュール・パスキンは、女の絵も、子どもの絵も描いた。
なんだろう。
輪郭がはっきりしない。いつも、パスキンの筆致は震えているような線である。

わたしは、その線がなぜだか好きなのである。
なんでだろう。
描かれた人たちの心の震えを読み取っていたのか。
それとも、人間を見た時の、パスキンの心が震えていたのか。
それとも、そこにいる人間の輪郭が定まらなかったからなのか。

いつも、パスキンの絵を見て、わたしは問いかける。

あなたの目に映る、女性たちは、あなたの目には、どんな風に映っていたんだろうか。

わたしも、あなたになら、絵を描いてもらいたいな。なんて思ってしまう。


yohaku Ⅱ

わたしは、パスキンのこの《花束をもつ少女》の絵の前で、足が止まり、いつもの如く、いつまでも凝視して、しばらく動かなくなった。笑

多分、後から振り返ってみると、この花束を持つ少女が、幼い頃の自分にどうしても重なってしまったからだと思う。

わたしは、幼い頃、白いタイツを母親に履かせてもらった。だが、どうしても、そのタイツの窮屈さに馴染めなかった。だから、タイツは、儀式的な行事が終わった途端に、脱いでしまっていた。そんな幼い時の記憶が残っている。多分、その窮屈さがわたしの身体の奥底に沈んでいたのだろうと思う。このパスキンが描いた《花束をもつ少女》は、そんなわたしの身体記憶を起こさせるには、十分すぎるほどであった。

そして、この絵の少女の表情が、昔のわたしを想起させた。なんとも居心地が悪そうである。笑

可愛い格好させてもらっているのは分かる。笑
絵を描いてもらっていることも分かる。
だが、なんだか居心地が悪い。笑

花束なんて、もう、持っているのが疲れてきたわ。
そんな少女の声が聞こえてきそうである。笑
わたしは、パスキンが描いた、この少女に、こんな声をかけたい。

あなたのそのまんまの姿が、とても愛おしいよと。

サーヤ


おもな参照:英語版・日本語版ウィキペディア「Jules Pascin/ジュール・パスキン」「Hermine David」「Lucy Krohg」、フランス語版ウィキペディア「Histoire de la prostitution en France」、北海道立近代美術館「エコール・ド・パリ」コレクション解説、Past/Not Past「Lucy Krohg: getting past the notion of muse」、ひろしま美術館・ポーラ美術館の所蔵作品ページ。本文に載せた《花束をもつ少女》の画像は Wikimedia Commons のパブリックドメイン画像。伝記的な挿話には資料によって食い違いがあり、本文では「伝えられている」と記した。

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