ピエール=オーギュスト・ルノワール(一八四一〜一九一九)。フランス、リモージュの生まれ。印象派の画家である。
七十八年の生涯のあいだ、彼が描きつづけたのは人だった。踊って笑っている男女。女。こども。年をとった人。
そして、その人たちの上に、いつも光が降っている。
ここでは、その生まれから順に辿る。
生まれ ——リモージュ、一八四一年
一八四一年二月二十五日、フランス中部の街リモージュ。磁器で知られる土地である。
父レオナール・ルノワールは仕立て屋。母マルグリットはお針子だった。
裕福な家ではない。布と針で、手を動かして暮らす家である。
幼少期 ——パリ、ルーヴルのそば
一八四四年、三歳のとき、一家はパリに移る。住んだのはアルジャントゥイユ通り。ルーヴル美術館のすぐ近くだった。
少年のルノワールは、よく歌う子どもだった。
教会の聖歌隊で歌っていたとき、その声を聴いて音楽の道をすすめたのが、聖歌隊を指揮していたシャルル・グノーである。『ファウスト』や「アヴェ・マリア」を書いた、あの作曲家である。
けれども家に金がなかった。
十三歳で、彼は学校をやめている。
児童期 ——十三歳、磁器に絵を描く
一八五四年、十三歳。彼が働きに出たのは磁器の絵付け工房だった。白い皿の上に、花や人物を描く仕事である。
磁器の絵付けは、油絵とは違う。
白い地の上に、薄く、速く、透ける絵の具をのせる。塗り重ねて直すことができない。下の白がそのまま光になる。
四年ほど続いたこの仕事は、一八五八年に終わった。工房が機械での印刷を入れ、手描きの職人が要らなくなったからである。
そのあとは、扇に絵を描いた。宣教師が持っていく布にも描いた。
そうして食いつなぎながら、彼は金を貯めている。
青年期 ——グレールの画塾、一八六二年
一八六二年、貯めた金でシャルル・グレールの画塾に入る。二十一歳。
この画塾で彼が出会ったのが、クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールだった。のちに印象派と呼ばれることになる画家たちである。
一八六四年、はじめてサロンに入選。
それでも暮らしは苦しく、絵の具が買えない時期があった。
一八六八年のサロンで注目されたのが《日傘をさすリーズ》(一八六七年)。描かれているのは、当時の恋人リーズ・トレオである。
光を見つける ——ラ・グルヌイエール、一八六九年
一八六九年の夏、ルノワールはモネと並んで、セーヌ川の水浴場ラ・グルヌイエールを描いた。
水面で砕ける光を、混ぜないままの絵の具で、点々と置いていく。印象派が始まった場所のひとつとされている。
同じ一八六九年、彼は父レオナールの肖像を描いている(セントルイス美術館蔵)。父は七十歳。ルノワールは金がなくて実家に戻っていた。
この絵は明るくない。黒と白を抑えた、厳しい写実の絵である。光の画家になる前の、彼の一枚。

(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
第一回印象派展 ——一八七四年
一八七四年四月、第一回印象派展。ルノワールは六点を出した。そのなかに《劇場の桟敷席》がある。
批評は、全体としては冷たかった。そのなかで彼の絵は、比較的よく受け取られたほうだった。
笑っている人たち ——一八七五〜八一年
ここからの数年が、いま「ルノワールらしい」と言われる絵の時期である。
《フルネーズ親父》(一八七五年、クラーク美術館蔵)。セーヌ川の中州で食堂と貸しボート屋をやっていた主人が、パイプをくわえている。常連だったルノワールが客を連れてくる礼に、主人が描かせたとも伝えられる。

(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(一八七六年、オルセー美術館蔵)。モンマルトルの野外の踊り場。木の葉を通った光が、踊る人の顔にも背中にも、地面にも、まだらに落ちている。笑っている顔がいくつも入っている。

(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
《ふらんこ》(一八七六年)。同じ木漏れ日。
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》(一八七八年)。翌一八七九年のサロンで成功をおさめ、彼の暮らしはここでようやく安定する。
《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》(一八八〇年)。八歳の少女の、栗色の長い髪。
《舟遊びの人々の昼食》(一八八〇〜八一年、フィリップス・コレクション蔵)。川べりのテラス。食べ終わったあとの、誰も何もしていない時間。
左手前で小犬を抱いている女性が、アリーヌ・シャリゴである。

(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
旅と、変わったこと ——一八八一年から
一八八一年、ルノワールは旅に出る。アルジェリア、マドリード、フィレンツェ、ローマ。ドラクロワ、ベラスケス、ティツィアーノ、そしてラファエロを見た。
一八八二年一月十五日、パレルモで作曲家リヒャルト・ワーグナーに会い、その肖像を三十五分で描いている。
同じ年、肺炎にかかった。呼吸器に後遺症が残り、療養のためもう一度アルジェリアに渡っている。
旅のあと、彼の絵は変わった。輪郭がはっきりし、線が強くなる。「アングル的時代」「乾いた時期」と呼ばれる数年である。その到達点が《大水浴図》(一八八四〜八七年)。
この時期には《田舎のダンス》《都会のダンス》(ともに一八八三年)、《ブージヴァルのダンス》(一八八三年)、《雨傘》(一八八〇〜八六年頃)がある。
アリーヌと、三人の息子
アリーヌ・ヴィクトリーヌ・シャリゴ。お針子だった。ルノワールより二十歳下。《舟遊びの人々の昼食》のモデルの一人である。
- 一八八五年 長男ピエールが生まれる(のちに俳優)
- 一八九〇年 二人は結婚する
- 一八九四年 次男ジャン(のちに映画監督。『大いなる幻影』『ゲームの規則』)
- 一九〇一年 三男クロード、通称コ(のちに陶芸家)
磁器の絵付けから始めた父の、末の息子が陶芸家になった。
そして次男のジャンは、のちに『ルノワール、わが父』を書いている。父の生涯を、息子が書き残した。
手のこと ——一八九二年から
一八九二年ごろから、ルノワールは関節リウマチを病む。指と手が、少しずつこわばって変形していった。
一九〇七年、暖かい土地を求めて南フランスのカーニュ=シュル=メールに移る。レ・コレットという農園である。以後、亡くなるまでここで描いた。
手はこわばり、変形した。それでも筆は握れた。位置を合わせてもらえば描けた。
晩年の写真で手に巻かれている包帯は、皮膚がすれるのを防ぐためのものである。
大きな画面を描くために、カンヴァスのほうを動かせる仕掛けを使った。彫刻家リシャール・ギノと組んで、ブロンズもつくった。
なぜそこまでして描くのか、と問われたとき、彼はこう答えたと伝えられている。
苦しみは過ぎ去る。美しさは残る。
一九一九年十二月三日
一九一九年、ルノワールはルーヴル美術館へ行っている。自分の絵が、古典の巨匠たちと並んで掛かっているのを見るためである。
同じ年の十二月三日、カーニュで亡くなった。七十八歳だった。
絵は、きれいでいい
ルノワールは、絵についてこういう意味のことを言い残している。
絵は、心地よく、陽気で、きれいなものであってほしい。そう、きれいなものであってほしい。この世には面倒なものがもう十分にある。これ以上つくることはない。
彼が描いたのは、働いている人の日曜日だった。
踊り場。川べりの昼食。ぶらんこ。ピアノの前の姉妹。パイプをくわえた食堂の親父。膝の上のこども。
特別な日ではない。誰にでも来る、ふつうの午後である。
そこに、光がいっぱいに入っている。
日本で会えるルノワール
ここに挙げた作品の画像は載せていない。所蔵館のページで見てほしい。
常設で必ず出ているとはかぎらないので、行く前に確かめるのがよい。
- 国立西洋美術館(東京・上野)——《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(一八七二年)、《木かげ》(一八八〇年頃)、《ルーベンス作「神々の会議」の模写》(一八六一年)。松方コレクション。
- アーティゾン美術館(東京・京橋)——《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(一八七六年)、《カーニュのテラス》(一九〇五年)。
- ポーラ美術館(箱根)——《カーニュの風景》(一九〇五年)。
- ひろしま美術館(広島)——《クロワシー付近のセーヌ河》(一九一一年)。
- 群馬県立近代美術館(高崎)——《読書するふたり》(一八七七年)。
- 上原美術館(静岡・下田)——《アルジャントゥイユの橋》(一八七三年)。
yohaku
ルノワールについて知ったのは、わたしの実の母が、ルノワールが好きだったからだと思う。児童期のわたしに、ルノワールの画集を買って、見せてくれた。その柔らかい光の絵に、わたしは何度もその画集を開いた記憶がある。
わたしの母は、自分の子どもに光の絵を与えたかったのではないか。現在では、そんなふうに思っている。
おもな参照:英語版ウィキペディア「Pierre-Auguste Renoir」「Léonard Renoir, The Artist’s Father」、セントルイス美術館・クラーク美術館の所蔵作品ページ、国立西洋美術館「松方コレクション」および各館の公開情報、美術手帖「ルノワールの名作はここにある」。本文中の作品画像はいずれも Wikimedia Commons のパブリックドメイン画像で、キャプションに所蔵館と出所を記した。制作年や逸話には資料によって食い違いがあり、本文では「伝えられている」と記した。

