アルフォンス・ミュシャ——人との出会いで、人生が動いた人

アール・ヌーヴォー風の装飾と百合に囲まれ、薄紫のドレスの女性が、濃い色の飲みものの入ったグラスを持ってこちらを見ている。頭のうしろに弧。 画家研究

アルフォンス・ミュシャ(一八六〇〜一九三九)。いまのチェコ、モラヴィアの生まれ。
パリで「ミュシャ様式」と呼ばれる絵を作り、アール・ヌーヴォーの顔になった人である。

その始まりは、一八九四年十二月二十六日、印刷所にたまたま居合わせた一日だった。

ここでは、その生まれから順に辿る。


生まれ ——イヴァンチツェ、一八六〇年

一八六〇年七月二十四日、モラヴィアの小さな町イヴァンチツェ。当時はオーストリア帝国、いまのチェコ共和国である。

父オンドジェイは法廷の使丁。母アマーリエは粉屋の娘だった。
子どもは六人。ミュシャはその長男である。きょうだいは全員、Aで始まる名前をつけられた。

幼少期 ——歌でしか、学校に行けなかった

幼いころから絵を描いた。近所の商人が紙をくれた、という話が残っている。

ただ、家に金がなかった。小学校を終えても、その先へ進む学費が出せない。

彼を先へ進ませたのは、絵ではなくだった。
アルトの声を買われ、ブルノの聖ペテロ・パウロ大聖堂の聖歌隊員として採用される。その給費で、ギムナジウムに通った。

声変わりのあとは、ミサでヴァイオリンを弾いた。

青年期 ——「別の職業を探しなさい」

一八七八年、十八歳。プラハの美術アカデミーを受験する。

結果は不合格だった。
そのとき彼が受け取った助言が、これである。

別の職業を探しなさい。

芝居の書割 ——ウィーンと、劇場の火事

一八八〇年、十九歳でウィーンへ出る。仕事は芝居の書割を描く見習いだった。舞台の背景である。

一八八一年、リンク劇場が焼けた。四百人以上が死んだ大火事である。
その劇場は、彼の雇い主にとって最大の得意先だった。仕事はなくなった。

拾われる ——クーエン=ベラシ伯爵

ミュシャはモラヴィアのミクロフへ移り、肖像や装飾の仕事で食いつなぐ。

そこで彼の絵を見たのが、エドゥアルト・クーエン=ベラシ伯爵だった。城の壁画を依頼し、そのまま彼の学費を出すことにする。

一八八五年、ミュンヘンの美術アカデミー。
一八八七年、伯爵の支援でパリへ。翌年アカデミー・ジュリアン、その翌年アカデミー・コラロッシに学んだ。

パリ ——そして、金が切れる

一八八九年の暮れ、伯爵からの送金が止まった。二十九歳である。

グランド・ショミエール通り十三番地の下宿に住んだ。おかみのシャルロット・カロンは、家賃の代わりに絵を受け取ってくれる人だった。

雑誌の挿絵で食いつなぐ。『ラ・ヴィ・ポピュレール』『ル・プティ・フランセ・イリュストレ』。
一八九〇年五月二十二日、モーパッサンの短篇の表紙絵。
一八九三年の夏には、タヒチから戻ったばかりのゴーギャンとアトリエを共有している。

三十四歳。まだ、名前のない挿絵描きだった。


一八九四年十二月二十六日

その年の十月三十一日、ヴィクトリアン・サルドゥの戯曲《ジスモンダ》がルネサンス座で幕を開けていた。主演はサラ・ベルナール。彼女はこの劇場の座長でもあった。

公演はクリスマス休みに入り、年明けから再開することになっていた。

十二月二十六日。
ベルナールは、ルメルシエ印刷所の支配人モーリス・ド・ブリュノフに電話をかける。新しいポスターがほしい。期限は一月一日。

無理な注文だった。印刷所の絵描きは、全員が休みに入っていた。

そこに一人だけ、いた。
ミュシャである。休みをとった友人の代わりに、校正刷りを見に来ていた。

ブリュノフは、この居合わせただけの男に頼むしかなかった。

一八九五年一月一日の朝

元日の朝、パリじゅうの壁にそれが貼られていた。

細長い縦長のポスター。ビザンティン風の長衣に蘭の髪飾りをつけた女性が、棕櫚の枝を持って立っている。頭のうしろに弧。上に「GISMONDA」、弧に「BERNHARDT」の文字。
アルフォンス・ミュシャ《ジスモンダ》1894年、リトグラフ、216×74.2cm
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

下の隅に「IMPRIMERIES LEMERCIER, PARIS.」と刷ってある。あの日、ミュシャが立っていた印刷所の名前である。

縦二一六センチ、横七四・二センチ。
当時のポスターとしては、異様に細長い。そしてほぼ等身大である。

描かれたのは、劇の最後の幕でベルナールが着ていた衣装だった。ビザンティン風の長衣。蘭の髪飾り。手には棕櫚の枝。頭のうしろに、虹のような弧が置かれている。
色は淡い。パステルのような色調である。

そして——彼女は、動いていない。

当時のポスターは、目を引くために強い色と激しい動きを使うものだった。ミュシャがやったのは逆である。ただ立っている等身大の女を、静かに、細長く置いた。

街の人は足を止めた。
評判は、その日のうちに広まったと伝えられている。

サラ・ベルナールという人

このとき、サラ・ベルナールは五十歳である。ミュシャは三十四歳。

すでに「聖なるサラ」と呼ばれ、ヨーロッパでもっとも名を知られた女優だった。自分で劇場を借り、自分で座長をつとめ、自分で演目を決める人である。

その人が、無名の男が一晩で作ったポスターを見て、こうした。

一八九五年から翌年にかけて、四千枚を刷らせた。
そして六年の専属契約を彼に与えた。

以後、彼は彼女の舞台のポスターを描きつづける。
《椿姫》(一八九六年)、《ロレンザッチョ》(一八九六年)、《メデー》(一八九八年)、《ラ・トスカ》(一八九八年)、《ハムレット》(一八九九年)。舞台衣装も、装身具も手がけた。

拾われた人が、拾った人を描きつづけた六年である。


「ミュシャ様式」と呼ばれて

ポスターは飛ぶように売れた。印刷所シャンプノワは彼に月給を払い、複製の権利を得た。一八九六年から一九〇四年までに、百点を超えるポスターを作っている。

《四季》(一八九六年)、《花》(一八九八年)、《芸術》(一八九八年)、《宝石》(一九〇〇年)——壁に貼るための装飾パネルの連作。
たばこの巻紙、シャンパン、ビスケット、ベビーフード、自転車。広告の絵を、彼はいくらでも描いた。

アール・ヌーヴォー風の装飾と百合に囲まれ、薄紫のドレスの女性が、皿にのせたビスケットを差し出し、一枚をこちらへ向けて微笑んでいる。
絵:Luna SĀYA
アール・ヌーヴォー風の装飾と百合に囲まれ、薄紫のドレスの女性が、たばこを男性の口もとへ差し出しながら、こちらを見ている。
絵:Luna SĀYA

一八九七年の個展には四百四十八点が並び、ウィーン、プラハ、ミュンヘン、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨークを巡回した。

人はこれを「ル・スティル・ミュシャ(ミュシャ様式)」と呼んだ。

本当にやりたかったこと ——スラヴ叙事詩

ところが、当人はそれを喜んでいなかった。

息子イジーが伝えている父の言葉がある。

アール・ヌーヴォーとは何だ。……芸術が新しくなることなど、ありえない。

妻に宛てて、プラハへ帰ることについてはこう書いた。

わたしは本当に善いものを作れるようになる。美術批評家のためではなく、わたしたちスラヴの魂のために。

彼が生涯の仕事と考えていたのは、《スラヴ叙事詩》だった。

一九〇〇年のパリ万博のころに構想し、一九一〇年、アメリカの実業家チャールズ・クレインの出資を得てプラハに戻る。
一九一二年から一九二六年まで、二十点の巨大なカンヴァスを描いた。一点が六メートル×八メートルである。

描いたのは王や英雄の戦ではない。スラヴの民衆が、千年のあいだ何をされ、何を守ってきたかの歴史である。彼はスラヴの各地を旅し、写生し、写真を撮り、衣装を着せた人を立たせ、その人が自分で決めたポーズを描いた。

第一次大戦のあいだも描きつづけた。カンヴァスが手に入らない時期もあった。

一九二八年、チェコスロヴァキア共和国の建国十周年に完成させ、そのすべてをプラハ市に寄贈した。


スラヴ叙事詩 ——二十点

ここに、二十点すべてを並べる。番号は連作の順である。

描かれている出来事は、およそ千年ぶんある。一点目は歴史が始まる前のスラヴの原っぱ。二十点目は一九一八年——彼が生きている、その年である。

ただし、きっちり年代順ではない。国ごと、主題ごとにまとまっている部分がある。

そのかわり、制作年を見てほしい。
一番・二番・三番は一九一二年。四番は一九二三年、五番は一九二四年、六番は一九二六年。十九番は一九一四年、十一番は一九一六年。ばらばらである。

つまり彼は、二十点の枠を先に全部決めてから、十四年かけて埋めていった。順番に描いたのではない。最初から、完成形が頭のなかにあった。

十八歳で「別の職業を探しなさい」と言われた人が、五十代から七十歳手前まで、六メートル×八メートルを二十枚、そうやって埋めている。

並べて見ると、もうひとつ分かることがある。
王の絵が、少ない。四番、五番、六番、十三番くらいである。あとは、説教を聞いている人たち、集まっている人たち、印刷所、学校、農奴制が終わる日。

十番と十一番の題を見てほしい。《グルンヴァルトの戦いの》、《ヴィートコフの戦いの》。
戦いそのものは描かれていない。終わったあとが描かれている。

そして十五番は《イヴァンチツェにおけるクラリツェ聖書の印刷》。イヴァンチツェは、ミュシャが生まれた町である。二十点のうちの一点を、自分の生まれた町の印刷所にあてている。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第1作

1 原故郷のスラヴ民族(一九一二年)
夜の草原に身を伏せる男女。歴史が始まる前のスラヴ。連作の一枚目である。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第2作

2 ルヤーナ島のスヴァントヴィート祭(一九一二年)
バルト海の島で行われた、キリスト教以前のスラヴの祭。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第3作

3 大モラヴィアにおけるスラヴ典礼の導入(一九一二年)
八六三年、キュリロスとメトディオスが、スラヴの言葉による祈りをもたらした。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第4作

4 ブルガリア皇帝シメオン一世(一九二三年)
十世紀初め。ブルガリアで文字と書物が栄えた時代。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第5作

5 ボヘミア王プシェミスル・オタカル二世(一九二四年)
十三世紀。「鉄と黄金の王」と呼ばれた人。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第6作

6 セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンの戴冠(一九二六年)
一三四六年。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第7作

7 クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ(一九一六年)
十四世紀の説教者。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第8作

8 ベツレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス師(一九一六年)
十五世紀初め。ラテン語ではなく、チェコの言葉で説いた人である。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第9作

9 クジーシュキの集会(一九一六年)
一四一九年。野に集まった人々。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第10作

10 グルンヴァルトの戦いの後(一九二四年)
一四一〇年。戦いの場面ではなく、そのあとの野が描かれている。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第11作

11 ヴィートコフの戦いの後(一九一六年)
一四二〇年。これも「後」である。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第12作

12 ヘルチツェのペトル(一九一八年)
十五世紀。暴力によらないことを説いた人。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第13作

13 フス派の王イジー・ス・ポジェブラト(一九二三年)
十五世紀。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第14作

14 ズリーニによるシゲトの防衛(一九一四年)
一五六六年、オスマン軍に囲まれた城。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第15作

15 イヴァンチツェにおけるクラリツェ聖書の印刷(一九一四年)
十六世紀。ミュシャが生まれた町である。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第16作

16 ヤン・アモス・コメンスキー(一九一八年)
教育の思想家。亡命先の海辺で。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第17作

17 聖地アトス山(一九二六年)
ギリシャの、スラヴの修道院がある山。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第18作

18 スラヴ菩提樹の下のオムラジナの誓い(一九二六年)
十九世紀末の若者たち。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第19作

19 ロシアにおける農奴制の廃止(一九一四年)
一八六一年。

アルフォンス・ミュシャ《スラヴ叙事詩》第20作

20 スラヴ民族の賛歌(一九二六年)
一九一八年の独立まで。連作の最後の一枚である。

画像はすべて Wikimedia Commons のパブリックドメイン画像。《スラヴ叙事詩》はプラハ市の所蔵で、近年はモラフスキー・クルムロフの城で公開されている。

一九一八年、新しい国のために

一九一八年、チェコスロヴァキアが独立する。

ミュシャはこの新しい国のために、最初の紙幣を、切手を、そして警察の制服をデザインした。
すべて無報酬である。

紙幣に描かれたスラヴィアの女性像には、支援者クレインの娘ジョゼフィンの顔が使われた。

一九三九年七月十四日

一九三〇年代、国の中が荒れていく。ミュシャの絵は顧みられなくなった。

一九三九年三月十五日、ドイツ軍がプラハを行進する。チェコスロヴァキアは消え、「ベーメン・メーレン保護領」になった。

ミュシャは逮捕された。スラヴの民族主義者であり、フリーメイソンであったからである。数日にわたって尋問を受け、釈放された。
七十八歳だった。

そのあと肺炎にかかる。
一九三九年七月十四日、プラハで亡くなった。七十九歳の誕生日の十日前である。第二次大戦が始まる、ひと月半前だった。

集会は禁じられていた。それでも、葬列には大勢の人が集まった。
彼が眠るのは、プラハのヴィシェフラト墓地スラヴィーンである。チェコの文化に名を残した者だけが入る場所である。



細い糸

人間と人間が出会う。本当に不思議である。出会いは何気なく日常の中に起こる。だが、その出会いの中で、自分の人生を決定的に変えてしまう出会いも、その中に含まれている。
わたしも、自分自身の人生において、様々な人たちと関わりをもってきた。もちろん、その中には自分の人生を動かした人が、たくさんいる。

あの時に、あの人と出会えていたから、人生が救われた。あの人と出会えたから人生の方向性が変わった。という人との出会い方は、全くもってロマンチックな演出を伴わない。笑

人からの紹介であったり、本当にすれ違いざまにたまたま人生が交差した人であったり、なぜあの瞬間、あの場所に居合わせたのだと驚くような展開である場合などである。

でも、それは、なんというか、わたしなりの解釈であるが、この地上に身体を持った魂がその魂にだけ反応したというのが、しっくりくるのである。
その時、その瞬間に、たまたま居合わせて、お互いのメッセージを交信しあった。ということなのではないかと思っている。

そのメッセージの交信により、お互いに人生の時間を長く共有することもあれば、強烈に惹かれたり、芸術の融合があるのだと思う。

わたしは、芸術や芸能は、人間が二人以上いないと生まれないと思っている。笑
一人の時間に芸術を生み出したとしても、必ずその前には人との出会いが隠れている。

俳優サラ・ベルナールは、ミュシャとたまたま繋がり、ミュシャの才能、芸術を世に広める役割を果たした。本当に偶然のように思える。だが、その偶然は、何か意図が組まれているようにさえ見える。

一つの弛んだ細い糸が、サラ・ベルナールという人物によって、ピンと引き寄せられ、その先にアルフォンス・ミュシャが繋がっていた。そんな象徴としてわたしには映像が浮かぶ。

この細い糸は、きっとあなたにもあるのではないか。そんなことを思う。
あなたの足元を見てほしい。きっと色とりどりの細い糸が落ちていることと思う。もし、その糸が弛んでいるとしたら、その糸はどこに繋がっているのか辿ってみてほしい。

わたしは、あなたの糸がピンと張りその先に光が満ちていることを願っている。

日本で会えるミュシャ

ポスターや装飾パネルの画像は、ここには載せていない。所蔵館のページで見てほしい。
常設で必ず出ているとはかぎらないので、行く前に確かめるのがよい。

  • 堺 アルフォンス・ミュシャ館(大阪・堺)——およそ五百二十点。ポスターや装飾パネルだけでなく、油彩、素描、書籍、ブロンズ、宝飾品まで含む。

このコレクションには、来歴がある。

集めたのは土居君雄(一九二六〜一九九〇)。株式会社ドイの創業者である。
彼はミュシャの実子イジー・ミュシャと親交を結び、その縁で、ミュシャの祖国でも見られない大型の油彩や下絵を含むコレクションを作りあげた。一九八九年、チェコスロヴァキアの文化功労最高勲章を受けている。

土居の没後、コレクションは堺市に寄贈された。一九九四年から公開が始まり、二〇〇〇年から堺市立文化館で見られる。

ミュシャの息子が手を貸して、日本に残された五百二十点である。


yohaku

ミュシャの広告ポスターを見ると不思議な気持ちになる。
それは、商品よりも、人物、多くは女の人の方に目がいってしまうからである。笑

その女の人と自分が、一緒にその商品を、試しているような気分になる。目があう、呼吸が重なる。そして一緒に、たとえばビールを味わう。うまい。一人でビールを飲むよりも、この女と飲む酒がうまいのである。笑

あぁ、そうか。わたしが欲しかったのは、ビールではなく、この女との味わい深い時間だったのだ。そんなことを思った。


おもな参照:英語版ウィキペディア「Alphonse Mucha」、ミュシャ財団(Mucha Foundation)の作品ページ、堺 アルフォンス・ミュシャ館「コレクションについて」、シカゴ美術館の《ジスモンダ》作品ページ。制作年や逸話には資料によって食い違いがあり、本文では「伝えられている」と記した。

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