モネ——死の直前まで、愛する人の命の光を残したかった人

柳と桜のあいだ、池に架かった橋の上で、麦わら帽子に白い髭の老いた画家が、黒髪の女性と向かい合って話している。奥に日本風のお堂。 画家研究

クロード・モネ(一八四〇〜一九二六)。フランスの画家。「印象派」という言葉は、この人の一枚の絵から生まれた。

八十六年の生涯のあいだ、彼が追いつづけたのはだった。海の光、川面の光、駅の煙にさす光、大聖堂の壁を移っていく光、池に浮かぶ睡蓮の上の光。

ここでは、その生まれから順に辿る。


生まれ ——パリ、一八四〇年

一八四〇年十一月十四日、パリ九区ラフィット通り四十五番地。
洗礼名はオスカル=クロード。家では「オスカル」と呼ばれていた。

父クロード・アドルフ・モネ(一八〇〇〜七一)は、船具と食料品を扱う卸商だった。
母ルイーズ・ジュスティーヌ(一八〇五〜五七)は歌をうたう人で、息子が絵を描くことを応援した。

幼少期 ——ル・アーヴル、海のそば

一八四五年、五歳のとき、一家はノルマンディーの港町ル・アーヴルに移る。

ここが彼の育った土地である。目の前に海があった。
のちに彼が生涯描きつづけることになる「水の上で動きつづける光」は、この街の景色から始まっている。

児童期 ——似顔絵を売る少年

十五歳のころ、モネは町の人の似顔絵を描いて売っていた。特徴を誇張した木炭画である。よく似ていると評判で、それなりの値がついた。

学校の勉強は好きではなかった。
少年はすでに、絵で金を得ていた。

十七歳の夏 ——ウジェーヌ・ブーダン

一八五七年一月、母が亡くなる。モネは十六歳だった。
彼を引き取って支えたのが、伯母マリー=ジャンヌ・ルカードルである。夫と死別し、子どもがなく、裕福だった。この人が、彼の絵の道をずっと金で支えることになる。

そして一八五八年ごろ、ル・アーヴルの額縁屋の店先で、彼はウジェーヌ・ブーダンという画家に出会う。

ブーダンがモネに教えたのは、たったひとつのことだった。外に出て、その場で描く。アトリエの中ではなく、風の吹く戸外で、目の前の空と海をそのまま描く。

モネはのちに、自分の成功のすべてをブーダンに負っていると語っている。師は彼だ、とも。

青年期 ——アルジェリアの光と、グレールの画塾

一八六〇年二月、パリのアカデミー・シュイスに入る。ここでカミーユ・ピサロと出会った。

一八六一年三月二日、徴兵のくじを引き当てる。四月二十九日、アフリカ猟騎兵連隊に入隊し、六月にはアルジェリアにいた。

翌一八六二年の春、腸チフスにかかる。伯母が三千二十五フランを払って除隊させた。十一月二十一日、除隊。

短い兵役だったが、モネはこう振り返っている。アルジェリアの光と鮮やかな色のなかに、その後の自分の研究の芽があった、と。

一八六二年十二月、パリのシャルル・グレールの画塾に入る。
そこで出会ったのが、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーだった。バジールは、彼のいちばんの友になる。

カミーユ ——一八六六年から

カミーユ・ドンシュー(一八四七〜七九)。モデルとして彼の前に現れた人である。

一八六六年、彼女を描いた《緑衣の女》がサロンに入選する。モネの名が世に出た最初の絵だった。

一八六七年八月八日、長男ジャンが生まれる。
二人が結婚するのは、その三年後、一八七〇年六月二十八日。普仏戦争が始まる直前である。

ロンドン ——一八七〇〜七一年

戦争を避けて、モネはロンドンへ渡った。

ここで彼は、ターナーコンスタブルを見る。とくにターナーがテムズ川の霧を描いた絵に強く打たれた。
同じころ、生涯の画商になるポール・デュラン=リュエルと知り合っている。

「印象派」という名前 ——一八七四年

一八七二年、モネはル・アーヴルの港の朝を描いた。題は《印象、日の出》(マルモッタン・モネ美術館蔵)。

霧のかかった港の朝。青灰色の水と空のなかに、小さな赤い太陽がひとつ。水面にその光が縦に砕けて映っている。手前に小舟。
クロード・モネ《印象、日の出》1872年、マルモッタン・モネ美術館蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

灰と青のなかに、赤い太陽がひとつだけ。
一八七四年の第一回展に、モネが自分で出した絵である。

この絵が一八七四年の第一回展に出たとき、批評家ルイ・ルロワが、この題をとって彼らをからかった。「印象派」。描きかけのようだ、という意味の悪口である。

けなすために作られた言葉が、そのまま彼らの名前になった。

一八七九年九月五日

一八七九年九月五日、カミーユが亡くなる。三十二歳だった。

モネはその枕元で、絵筆を執っている。《死の床のカミーユ》(一八七九年、オルセー美術館蔵)。

のちに彼は、友人のクレマンソーにこう打ち明けている。愛する妻の死顔を前にして、気づけば自分は、反射のように、色を並べて記録していたと。

光を見る目が、そこでも止まらなかった。
彼はそのことに、自分でおののいている。

ただ、この絵には続きがある。

モネは、この一枚を生涯、人に見せなかった。展覧会に出していない。売ってもいない。題さえついていなかった。
モネ財団は、この絵がジヴェルニーの彼の寝室に掛けられていた可能性が高い、としている。

絵は彼の死後も家に残り、息子ミシェルの手にあった。世に出たのは一九六三年、画商カティア・グラノフがミシェルから買い取って国に寄贈してからである。
カミーユが亡くなってから、八十四年が経っていた。

二つの家族 ——アリス・オシュデ

一八七八年の秋、モネとカミーユはヴェトゥイユに移り、オシュデ家と一つの家で暮らしはじめる。エルネスト・オシュデは百貨店を営む大商人で、モネの絵を買っていた人だった。その事業が傾き、二つの家族は生活を共にすることになる。

カミーユの最期を看たのは、エルネストの妻アリスである。

アリスには八人の子がいた。モネには二人。
エルネストが一八九一年に亡くなり、翌一八九二年、モネとアリスは結婚した。アリスは一九一一年に亡くなっている。

ジヴェルニー ——一八八三年から

一八八三年四月、モネはパリの北西、セーヌ川沿いの村ジヴェルニーに移る。はじめは借家だった。一八九〇年、その家を買った。

そして彼は、庭を作りはじめる。

花の庭と、水の庭。川から水を引いて池を掘り、そこに日本風の太鼓橋を架けた。睡蓮を浮かべた。フランスの白い睡蓮に、南米やエジプトから取り寄せた品種を足した。

池は一九〇一年と一九一〇年に広げられている。
庭師は最後には七人になった。それでも設計するのはモネ自身で、毎日、指示を書いて渡していた。

彼は、自分が描くための景色を、自分で作った。

柳の垂れる池に架かった緑色の太鼓橋。橋の下の水面いっぱいに睡蓮の葉と、白と桃色の花。
クロード・モネ《睡蓮の池と日本の橋》1899年、プリンストン大学美術館蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン。撮影:Bruce M. White)

ジヴェルニーの、彼が自分で掘った池と、自分で架けた太鼓橋である。一九〇〇年にデュラン=リュエルの画廊で発表した連作の一枚。
壁に浮世絵を掛けていた人が、庭に日本の橋を架けて、それを描いている。

壁の浮世絵

ジヴェルニーの家の壁には、浮世絵が掛かっている。いまも、モネが決めた並びのままである。

点数は資料によって幅があり、百八十六点とも二百三十一点ともいわれる。いちばん多いのは葛飾北斎で、二十点あまり。ほかに歌川広重、喜多川歌麿。

ポーラ美術館にある《睡蓮の池》(一八九九年)には日本風の太鼓橋が描かれていて、広重の《名所江戸百景 亀戸天神境内》(一八五六年)の影響といわれている。

同じものを、何度も ——連作

四十代の終わりから、モネは同じ対象を何枚も描くようになる。時刻を変え、季節を変え、天気を変えて。

  • 積みわら 一八九〇〜九一年
  • ポプラ並木 一八九一年
  • ルーアン大聖堂 一八九二〜九四年
  • ロンドン(テムズ川) 一八九九〜一九〇四年
  • 睡蓮 一八九〇年代の終わりから、死ぬまで

描かれているのは、積みわらでも、大聖堂でもない。
そこに当たっている光が、時間とともに変わっていくこと。それだけを、彼は何十枚も並べて描いた。

目のこと ——一九一二年から

一九一二年、モネは両眼の白内障と診断される。七十一歳。

水晶体が濁ると、色が変わって見える。白も、緑も、青も、だんだん濁って、黄色や紫のほうに寄っていった。光を見ることで生きてきた人の、目である。

一九二二年、クレマンソーに説得されて、パリの眼科医シャルル・クーテラの診察を受ける。左目の視力はごくわずか、右目は明かりがわかる程度になっていた。

一九二三年のはじめ、右目を二度に分けて手術。
術後もすぐには戻らなかった。黄色が強く見え、かたちがつかみにくかったと記録されている。

一九一八年十一月十二日

第一次大戦の停戦の、翌日である。

モネはクレマンソーに手紙を書いた。勝利の日に署名したい装飾画が二点ある。あなたの力添えで、それを国家に贈りたい。ささやかだが、自分が勝利に加われる唯一の方法だ——という意味のことを記している。

これが、のちの《睡蓮》大装飾画になる。

一九二六年十二月五日

一九二六年十二月五日、ジヴェルニーで死去。八十六歳だった。

先に亡くなった人がいる。妻アリスは一九一一年。長男ジャンは一九一四年二月十日、四十六歳で。
ジャンの妻ブランシュはアリスの娘であり、夫と母を失ったあと、義父モネの最後までそばにいた。

死の翌年、一九二七年のはじめ、二十二面のパネルがオランジュリー美術館に据えられた。いまも、そこにある。

児島虎次郎が来た日 ——一九二〇年

一九二〇年、ジヴェルニーの家に、日本から一人の画家が訪ねてくる。児島虎次郎。友人の画家・斎藤豊作と一緒だった。

児島は、日本の人に本物の西洋絵画を見せたいと考えていた。その買い付けの旅である。

モネは、自分の絵をほとんど売らない人だった。それでも児島の熱意に動かされ、十五年ものあいだ手元に置いていた《睡蓮》を渡した。
名目は、日本の牡丹の苗木との交換だったと伝えられている。

この一枚が、一九三〇年にできた大原美術館——日本で最初の西洋美術館——の柱のひとつになった。


この一枚を、載せない

わたしは、モネを「愛する人の命の光を残したかった人」という言葉で置いてみた。

だが、その光を大衆や権威のために使いたかった人ではないと分析している。
ただ、自分の隣にいた人を、いなかったことにしない。そこにいたこと、生きたこと、そして自分の隣にまだいてほしい。そんな柔らかな温かさを感じる。

だから、その絵は、人に見せるものではないのだと思う。

わたしは、その絵をテレビの、画家研究をテーマにした映像として鑑賞した記憶がある。でも、それだけで、もう十分である。
モネが愛したカミーユとの光は、モネだけの心で温めておけばそれで、十分である。

愛は、他人にひけらかさなくてもちゃんとそこにある。
その事実を、わたしに教えてくれた、作品である。

日本で会えるモネ

ここに挙げた作品の画像は載せていない。所蔵館のページで見てほしい。
常設で必ず出ているとはかぎらないので、行く前に確かめるのがよい。

  • 大原美術館(岡山・倉敷)——《睡蓮》(一九〇六年頃)。児島虎次郎がモネ本人から受け取った一枚。
  • 地中美術館(香川・直島)——最晩年の《睡蓮》五点を、自然光だけで見せる部屋がある。
  • 国立西洋美術館(東京・上野)——松方コレクションの《睡蓮》ほか。
  • ポーラ美術館(箱根)——《睡蓮の池》(一八九九年)ほか。

yohaku

愛とは、その人が生きた一瞬の輝きではないか。今現在のわたしには、そう思える。

その愛は、どんなに捕まえようとしても捕まえることができない。だが、愛は魂には沈む。そして、消えない。わたしは、そう思う。


おもな参照:英語版ウィキペディア「Claude Monet」「Camille Doncieux」「Jean Monet」、ジヴェルニーのモネの家と庭の公開年表、オランジュリー美術館およびクレマンソー博物館の公開情報、大原美術館・地中美術館・ポーラ美術館の所蔵作品ページ、白内障については医学系媒体の解説。本文に載せた二枚は、モネ自身が生前に人前へ出した作品で、いずれも Wikimedia Commons のパブリックドメイン画像。浮世絵の点数や逸話には資料によって食い違いがあり、本文では「伝えられている」と記した。

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