鏑木清方——男から見た女

夏の早朝、朝もやのかかる草むら。おさげ髪の少女が薄紫の着物でしゃがみ、足もとの桔梗のような紫の花に手をのばしている。 画家研究

鏑木清方(一八七八〜一九七二)。東京の生まれ。明治十一年から昭和四十七年まで、九十三年を生きた日本画家である。

描いたのは、東京にいた人たちだった。
理想の美人ではなく、その町にいて、その暮らしをしていた人である。

ここでは、その生まれから順に辿る。


生まれ ——神田佐久間町、明治十一年

一八七八年(明治十一年)八月三十一日、東京府神田佐久間町。
本名を健一という。

父は条野採菊。幕末には山々亭有人の号で人情本を書いた戯作者であり、明治になってからは新聞人になった人である。新聞の創刊にかかわり、のちに「やまと新聞」を興した。

一八九五年、母方の家督を継いで鏑木姓になる。

幼少期 ——芝居と寄席と、新聞の家で

戯作と新聞の家である。
幼い清方のまわりにあったのは、芝居であり、寄席であり、草双紙だった。絵より先に、話があった。

この育ちが、のちの絵に残る。彼が描いたのは、そこにいる人と、その人が立っている町である。

児童期 ——十三歳、水野年方に入門

一八九一年(明治二十四年)七月、十三歳。水野年方に入門する。
浮世絵師の系譜を引く画家である。清方の絵の出どころは、はじめから浮世絵の側にあった。

一八九三年、師から「清方」の号を贈られた。十五歳である。

青年期 ——挿絵から始まった

十七歳ごろ、父の「やまと新聞」に挿絵を描きはじめる。
彼は挿絵画家として世に出た人である。

一八九七年、日本絵画協会展に《ひなた》を初出品。同じ年、小説雑誌『新著月刊』に口絵を描き、これが尾崎紅葉と出会うきっかけになった。

一九〇一年、泉鏡花と知り合う。以後、その作品の挿絵を描きつづけた。
尾崎紅葉『金色夜叉』、島崎藤村『破戒』の挿絵でも知られる。

文学のとなりで絵を描くところから始まった画家である。

樋口一葉のこと

清方は少年のころから樋口一葉を愛読していた。

一葉が亡くなったのは一八九六年、二十四歳。そのとき清方は十八歳である。会うことはなかった。

一九〇二年、彼は《一葉女史の墓》を描く(鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵)。
のちに《一葉》も描いた。一葉の『にごりえ』『たけくらべ』にも絵をつけている。

烏合会 ——一九〇一年

一九〇一年、鰭崎英朋、池田輝方、池田蕉園らと烏合会を結成する。

挿絵を描いていた画家たちが、展覧会に出ていくための場になった。
ここから清方は、本の中の絵から、展覧会の絵へ移っていく。

展覧会の画家へ

一九一四年《墨田河舟遊》(東京国立近代美術館蔵)。

一九一六年、結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘らと金鈴社を結成。

朝涼 ——一九二五年

一九二五年(大正十四年)、第六回帝展に出した《朝涼》。絹本着色の軸で、縦二一九・〇×横八三・五センチ。大きな絵である。

描かれているのは、清方自身の長女・清子。十四、五歳のころである。

清方は一九二〇年から横浜の金沢に別荘を構えていた。そこにいるあいだ、早朝に近所を散歩するのが習慣だった。
夏のある日、白い残月のかかる朝焼けのころ、長女と連れ立って歩いた。その光景から、この絵は生まれている。

本画にかかる前に、娘の立ち姿と横顔を何度も写生した。蓮と稲田の続く景色も、写実で描いている。

(鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵)

築地明石町 ——一九二七年

一九二七年、第八回帝展に出した《築地明石町》が帝国美術院賞を受ける。清方、四十九歳。

描かれているのは、髪をイギリス巻にし、単衣の小紋に黒い羽織をはおった女性である。振り返るように立っている。
明治の築地は、外国人居留地のあった町である。その町にいた人の姿として描かれている。

一九三〇年に《新富町》《浜町河岸》が続き、この三点で三部作になった。

三遊亭円朝像 ——一九三〇年

同じ一九三〇年、《三遊亭円朝像》。落語家・三遊亭円朝の肖像である。
のちに重要文化財に指定された(東京国立近代美術館蔵)。

寄席のある町で育った人が、その芸の人を描いている。

卓上芸術 ——手のなかで見る絵

大正の終わりごろ、清方は「卓上芸術」という言葉を作った。彼の造語である。

展覧会で見上げる絵を「会場芸術」、床の間に掛ける絵を「床の間芸術」と呼ぶなら、そのどちらでもない絵がある。
手に取って、うつむいて、机の上でひとりで細かく味わう絵。巻物、画帖、版画、そして挿絵である。

《註文帳》や《にごりえ》が、その代表とされる。

清方がこれを言ったのには、理由がある。
展覧会に足を運べる人ばかりではない。安くても質のよい複製を届けることで、絵は人の手のなかに入る。そうやって芸術は社会に開かれる、と彼は考えていた。

大きな会場で仰ぎ見るためではなく、誰かの机の上に置かれるために描く。
この人が誰のほうを向いていたかが、ここに出ている。

東の清方、西の松園

同じころ、京都に上村松園(一八七五〜一九四九)がいた。三歳ちがいである。
二人は並べて「東の清方、西の松園」と呼ばれた。

ただ、二人が描いたものは違う。

松園がめざしたのは「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」だった。理想の女性像である。
清方が描いたのは、明治の東京に実際にいた人と、その町の風俗である。美人画というより風俗画に近い、と評されてきた。

戦災と、鎌倉

一九四四年、帝室技芸員

戦争で東京の自宅が焼けた。
一九四六年から、鎌倉市雪ノ下に居を構える。以後、亡くなるまでこの土地で暮らした。

一九五四年、文化勲章を受章。七十六歳。

門下からは伊東深水らが出ている。

一九七二年三月二日

一九七二年三月二日、鎌倉で亡くなった。九十三歳だった。
墓所は東京・谷中霊園である。

明治十一年に生まれて、昭和四十七年まで生きた。彼が少年のころに見た東京は、彼が死ぬころにはもうどこにもない。

幻の四十四年 ——そして二〇一九年

《築地明石町》には、続きがある。

この絵は一九七五年の出品を最後に、行方が分からなくなった。代表作として知られていながら、実物を見た者がいない絵になった。

ふたたび現れたのは二〇一八年の秋である。東京国立近代美術館に持ち込まれた。
翌二〇一九年、《新富町》《浜町河岸》とあわせて三点が同館に収蔵された。

四十四年ぶりだった。

二〇二二年、この三部作を重要文化財に指定することが答申されている。


わたしが清方に出会うまで

わたしが、鏑木清方に出会ったのは、上村松園の画集である。
『もっと知りたい上村松園 生涯と作品』(加藤類子 著)の画集の中であった。わたしは、その画集を、松園の絵と共に、加藤類子さんが研究し、まとめた文章・資料を隅から隅まで、舐めるように読み込んだ。笑
松園のことを、どうしても知りたかったのだ。笑
あんな素晴らしい作品を生み出した一人の女性をもっと知りたい、という欲求が、身体中から立ち上がった。

そして、わたしの目は、その中の「朝涼」という、鏑木清方が自身の長女を描いた作品に、目が釘付けになった。夏の早朝、草むらの前をおさげの髪型の少女が涼しそうに、ゆったりと歩いている作品である。その少女の表情、薄紫の美しい着物、おさげの髪を自分の両手で優しく触れる手、全てが素晴らしかった。

わたしは、散歩が好きである。その「朝涼」を観ると、早朝の清らかで新鮮な朝の空気が自分の身体に空気ごと取り込まれていくような感覚になる。この「朝涼」が、わたしと鏑木清方の出会いであった。

川べりの朝。柳の下で、おさげ髪の少女が薄紫の着物でしゃがみ、桔梗の花を見つめている。遠くの水面に舟が一艘。
絵:Luna SĀYA

男が描いた女、女が描いた女

もう一つ、興味深いことがある。
わたしは、上村松園の作品に出会ったのは、島根県の足立美術館である。松園の作品に出会ったとき、わたしはこう思った。

「この作品の作者は、誰なんだろう。なんだろう、この違和感は。」

そして、作品の作者について、観覧が終わった後に、美術館においてあった画集を開く。上村松園、性別女性。わたしは、なんだか、あぁ、そういうことか。と思ってしまった。妙に納得してしまったのだ。
あの、素晴らしい絵は、確かに、男性には描けないと。

これは、女らしい。男らしい。というカテゴリーバイアスを指しているのではなく、松園の絵は、女性という身体を与えられた人にしか描けない絵ではないか、とわたし自身の身体が勝手に考察し、納得してしまったのだ。

※ カテゴリーバイアスとは、目の前にいるその人を見るより先に、「女だから」「男だから」という枠のほうで判断してしまう心の働きのこと。女らしさ・男らしさという、社会があとから割り当てた型を指す。ここで書いているのは、その型の話ではない。

平均的には、男性よりも小さな身体、筋肉量も少ない身体、そして、妊娠する身体。その人にしか、描けない。そう、自分の身体で納得してしまった感覚があった。

ここからは、わたしの勝手な感想である。
社会的に明治といえば、男尊女卑の空気規範が強い時代である。女が一人で職を持ち、男性と肩を並べて生活を成り立たせるのは、容易ではない。身体の大きさでは、松園は、他の男性画家よりも、小さかったであろう。だが、その小さな身体から紡ぎ出される線は、なんとも、優美で気高く、品位がある。

なんというか、『精神が負けていない。』自分の輪郭を見失っていない。踏まれる。それでも、耐えながら、自分の足で立とうとする。相手の尊厳を踏むのではなく、自分で自分の尊厳・品位を保つ。そのしなやかさ、品の良さに、わたしは心を打たれ、松園の作品に心を奪われたのだと思う。

話が、西の松園に逸れてしまったが、東の清方の話に戻りたい。

わたしは、『鏑木清方 清く潔くうるはしく』(宮崎徹・鎌倉市鏑木清方記念美術館 編)の画集を購入し、清方の作品たちを鑑賞した。

そこで、思ったことがある。「この絵は、男のものだ。」と。

松園の絵は、女が描いた女である。
清方の絵は、男が描いた女である。

どちらも美人画を、描いているが、視点が違う。
松園は、女性という性をもった人が、女性の身体、そしてその人の在り方を精神性まで内包し、女性を内側から描いた作品。
清方は、もっと現実で暮らす女たち、暮らしの中で清方という一人の男の目がとらえた生活する女の画である。
わたしは、そう感じた。

清方が描く女たちには、どこか潔さがある。時間の経過を感じる。生きるとは、執着することでは、完成しない。そんな現実感のある絵であるとわたしは捉えている。自分の身体のある時間を、現実の空間の中で生きる。

松園の描く女たち、清方の描く女たち、わたしは、どちらも大好きである。
多分、わたしは、女性が放つ、独特の色気や雰囲気、受容性みたいなものが好きであり、そこに安心を覚えるのだと思う。

日本で会える清方

この記事には、作品の画像を一枚も載せていない。
鏑木清方は一九七二年に亡くなっているため、日本ではまだ著作権の保護期間内である(死後七十年)。所蔵館のページで見てほしい。

  • 東京国立近代美術館(東京・竹橋)——《築地明石町》(一九二七年)、《新富町》《浜町河岸》(ともに一九三〇年)、《三遊亭円朝像》(一九三〇年、重要文化財)、《墨田河舟遊》(一九一四年)。
  • 鎌倉市鏑木清方記念美術館(鎌倉・雪ノ下)——清方が晩年を過ごした住居の跡地に建っている。朝涼》(一九二五年)、《一葉女史の墓》(一九〇二年)ほか。卓上芸術——巻物や画帖といった、手のなかで見るための作品——をまとめて見られるのは、いまはここである。

常設で必ず出ているとはかぎらないので、行く前に確かめるのがよい。


yohaku

鏑木清方。この画家の絵を観ると、わたしは、いつもこう思う。

時間は、生活の中で過ぎる。だが、その生活を潔く清涼で美しいものにするか、過去に囚われ、淀んだ空気の中で、今日一日を過ごすのか。あなたは、どっちを選択するんだい?
そんなふうに聞かれているように感じる。

わたしは、清方にこう答えたい。

潔く、清涼で、納得のいく一日を、今日生きたいと。


おもな参照:日本語版ウィキペディア「鏑木清方」「卓上芸術」、鎌倉市鏑木清方記念美術館「鏑木清方の歩み」および展覧会情報、東京国立近代美術館の収蔵・重要文化財指定に関する発表、コトバンク「鏑木清方」、加藤類子『もっと知りたい上村松園 生涯と作品』(東京美術)宮崎徹・鎌倉市鏑木清方記念美術館編『鏑木清方 清く潔くうるはしく』(東京美術、二〇一四年)。制作年や逸話には資料によって食い違いがあり、本文では「伝えられている」と記した。

タイトルとURLをコピーしました