※この記事の表紙は、Luna SĀYA が描いた絵です。クリムトの作品ではありません。
グスタフ・クリムト(一八六二〜一九一八)。ウィーン近郊の生まれ。
金箔を貼った絵で知られ、その代表が《接吻》である。
彼はこう書き残している。
わたしは自画像を描いたことがない。絵の主題としての自分には、あまり関心がない。ほかの人間のほうに、なかでも女性のほうに、関心がある。
ここでは、その生まれから順に辿る。
生まれ ——バウムガルテン、一八六二年
一八六二年七月十四日、ウィーン近郊のバウムガルテン。
父エルンストは、ボヘミアから出てきた金の彫り師だった。母アンナは、音楽で身を立てたかった人である。
子どもは七人。男が三人、女が四人。グスタフはその二番目だった。
金は、はじめから家にあった言葉である。
幼少期 ——五回引っ越した家
家は貧しかった。
一八六二年から一八八四年までのあいだに、一家は五回引っ越している。いずれも、より家賃の安いところへである。
妹のアンナは、一八七四年に五歳で死んだ。もう一人の妹クララは、のちに心を病んだ。
児童期 ——十四歳、工芸学校へ
一八七六年、十四歳。ウィーンの工芸学校に入る。給費生だった。
学んだのは建築装飾画である。画家ではなく、建物を飾る職人として訓練された。一八八三年まで在籍した。
青年期 ——芸術家商会、そして皇帝の勲章
弟エルンストと、同窓のフランツ・マッチュ。三人で「芸術家商会」を組む。
仕事は劇場の装飾だった。フィウメ、ライヘンベルク、カールスバート、ブカレスト。
一八八六年から八八年にかけては、ウィーンのブルク劇場の天井画を手がけている。
一八八八年、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世から功労黄金十字章を受けた。二十六歳。
順調である。装飾の職人として、彼はすでに成功していた。
一八九二年 ——父と弟が、同じ年に死ぬ
一八九二年、父エルンストが脳卒中で死んだ。
同じ年、弟エルンストが心膜炎で死んだ。
クリムトは、父の家族と弟の家族、その両方の生活を背負うことになる。
この数年、彼はほとんど描いていない。マッチュとの共同も傾いていった。
ここから、彼の絵は変わる。
分離派 ——一八九七年
一八九七年、ウィーン分離派を結成し、初代会長になる。機関誌『ヴェル・サクルム(聖なる春)』も作った。
掲げた言葉がこれである。
時代にはその芸術を。芸術にはその自由を。
大学の天井画 ——「猥褻だ」と言われて
一八九四年、ウィーン大学の大講堂の天井画を依頼される。《哲学》《医学》《法学》の三点。一九〇〇年ごろに仕上がった。
結果は大騒動だった。政治からも、美学からも、宗教からも非難が来た。猥褻である、と。
三点は、ついに大講堂の天井に掛けられることはなかった。
そして一九四五年五月、退却するドイツ軍がインメンドルフ城を焼いたとき、三点とも焼失した。いま見ることはできない。
ベートーヴェン・フリーズ ——一九〇二年、最初の接吻
一九〇二年、第十四回分離派展。ベートーヴェンを讃える展覧会である。会期は四月十五日から六月二十七日。
クリムトは会場の壁に直接、長大な壁画を描いた。ベートーヴェン・フリーズである。展覧会が終われば消える前提の、軽い材料で描かれた。
物語は、苦しみから始まって、敵対する力を越え、最後にたどりつく。
その最後の場面が、抱き合う一組の男女である。金で描かれている。
この場面には、下敷きになった言葉がある。ベートーヴェンの第九、その終楽章の合唱——シラーの「歓喜に寄す」の一節である。
この接吻を、全世界へ。

グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》最終場面「この接吻を、全世界へ」1902年、ウィーン分離派会館
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
《接吻》の五年前に、彼はすでに接吻を描いていた。しかもそれは、二人だけのものではなく、世界へ向けられた接吻だった。
ラヴェンナ ——一九〇三年
一九〇三年、クリムトはヴェネツィアとラヴェンナへ行く。
ラヴェンナで見たのは、ビザンティンのモザイクである。壁一面が金で、人物は平らで、奥行きがない。
ここから、彼の金の時代が本格的に始まる。
金の彫り師の子が、金の壁を見て帰ってきた。
水蛇 ——一九〇四〜〇七年
《水蛇Ⅰ》。水彩、テンペラ、金、羊皮紙。
縦五〇×横二〇センチ。手のひらに乗るほどの、小さな絵である。ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵——のちに《接吻》が入るのと、同じ館である。

グスタフ・クリムト《水蛇Ⅰ》1904〜07年、水彩・テンペラ・金・羊皮紙、50×20cm、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
題は「水の蛇」。別に《女友だち》とも呼ばれる。
描かれているのは、蛇ではない。水のなかで絡み合う、二人の女性である。
髪が水草のように流れ、身体の境目がどこにあるのか分からなくなっている。
金の時代の仕事である。羊皮紙の上に、金が置かれている。
水蛇Ⅱ ——そして、その行方
続きにあたる《水蛇Ⅱ》は油彩で、縦八〇×横一四五センチ。Ⅰよりずっと大きい。
こちらでは、四人の女性が水中を漂っている。

グスタフ・クリムト《水蛇Ⅱ》1904〜07年、油彩・カンヴァス、80×145cm、個人蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
この絵には、行方の話がある。
もとの持ち主はジェニー・シュタイナー(一八六三〜一九五八)。ウィーンの裕福な実業家の妻で、ユダヤ人だった。この絵は、彼女のために描かれたものである。
一九三八年六月。オーストリアがドイツに併合されたあと、彼女はウィーンから逃れた。
残された絵は、「ユダヤ人の財産」として没収された。クリムトの他の作品も、エゴン・シーレの作品も、一緒に。
その絵を手に入れたのが、グスタフ・ウチツキー(一八九九〜一九六一)という映画監督である。ナチ政権下で映画を撮った人物であり、クリムトの庶子とされる人でもあった。
絵がふたたび動いたのは二〇一三年である。ウチツキーの妻ウルスラが、シュタイナーの相続人たちと合意のうえで売却し、代金を折半した。
値は約一億一二〇〇万ドル。当時、クリムトの作品として最高額だった。
いまは個人の所有である。
《水蛇Ⅰ》は、ウィーンの美術館で誰でも見られる。Ⅱは、見られない。
——輪郭が溶けている。これは、三年後の《接吻》でもう一度やられることである。
接吻 ——一九〇七〜〇八年
油彩に、金箔。そして銀と白金。カンヴァス、一八〇×一八〇センチの正方形である。
初めて人前に出たのは一九〇八年、ウィーンの「クンストシャウ」だった。
そして——その時点で、この絵はまだ描き終わっていない。
未完成のまま、オーストリア政府が二万五千クローネで買った。破格の値である。いまウィーンのベルヴェデーレ宮にあるのは、この絵である。
——二万五千クローネが、どれくらいの額なのか。
当時のクローネは金本位制で、純金一キログラムが三二八〇クローネだった。つまりこの絵の値は、純金にしておよそ七・六キログラムにあたる。
別の見方をすれば、一九一三年のウィーンの市電の切符が十九ヘラー(〇・一九クローネ)。二万五千クローネは、切符にして約十三万枚分である。
百年以上前の通貨を、いまの円に正確に換算することはできない。ただ、桁の大きさはこのあたりである。

グスタフ・クリムト《接吻》1907〜08年、油彩・金箔・銀・白金、カンヴァス、180×180cm、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
何が描かれているか
男が女の頬に口づけている。男の顔は見えない。
女は目を閉じている。首を、そらすように傾けている。片手は男の手を握り、もう片方の手は男の首にかかっている。
二人は膝をついている。
足もとを見てほしい。
花の咲く草地は、女の素足のところで切れている。その先には何もない。
ここを崖のふちと読む人がいる。二人が立っているのは、地面の終わりである、と。
そう読むと、この絵は幸福だけの絵ではなくなる。目を閉じている女が、何から目を閉じているのかという問いが立つ。
二枚の衣
二人はひとつの金の衣に包まれているように見えるが、模様は分かれている。
- 男の衣——黒と白の四角。直線、幾何。
- 女の衣——円と、花。曲線。
四角と円。この対比を、男と女の別として読むのが通例である。
ただし二人はひとつの金に包まれている。分かれているのは模様だけで、輪郭は溶けている。
モデルは、分かっていない
この女が誰なのかは、決着していない。
エミーリエ・フレーゲ。アルマ・マーラー。「赤いヒルダ」と呼ばれたモデル。名前は挙がるが、裏づける記録がない。
世界でもっとも知られた接吻の相手が、誰なのか分からない。
乙女(処女) ——一九一三年
《乙女(処女)》。油彩・カンヴァス、縦一九〇×横二〇〇センチ。プラハ国立美術館蔵。

グスタフ・クリムト《乙女(処女)》1913年、油彩・カンヴァス、190×200cm、プラハ国立美術館蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
金の時代のあとの絵である。金箔は使われていない。かわりに色そのものが渦を巻いている。「多彩の時代」と呼ばれる。
描かれているのは、ひとかたまりになって眠る、六人ほどの女性である。渦のような模様の布に、まとめて包まれている。
中央の少女は目を閉じ、花の冠をつけている。
この絡み合う女性たちを、ひとりの女性の、それぞれ違う段階として読む見方がある。眠り、目覚め、ためらい、ひらく——ひとつの身体のなかで起きていることが、六人の姿になって並んでいる、と。
描き込まれた花の多さも、少女から女性へ移っていく時間を示すとされる。
ここでも、輪郭は溶けている。どこまでが誰の腕なのかが、分からない。
エミーリエ・フレーゲ
一八九〇年代のはじめ、クリムトはエミーリエ・フレーゲと出会う。弟エルンストの妻の妹である。
彼女は服を作る人だった。クリムトが意匠を描き、彼女が仕立て、彼女が着た。
一九〇二年、彼は等身大の《エミーリエ・フレーゲの肖像》を描いている。

グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》1902年、油彩・カンヴァス、181×84cm、ウィーン・ミュージアム蔵
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
縦に長い画面に、立ち姿がそのまま入っている。着ているのは、当時の女性を締めつけたコルセットのない、ゆったりとした衣である。クリムトが意匠を描き、彼女が仕立て、彼女が着た服——その仕事の姿でもある。
二人の関係は、生涯続いた。ただし、肉体の関係はなかったとされる。
一八九〇年代の終わりから、彼は毎年の夏をフレーゲ一家とアッター湖で過ごした。風景画の多くは、その夏に描かれている。
地元の人は彼を「森の魔物」と呼んだ。

グスタフ・クリムト《アッター湖の島》1901〜02年頃、油彩・カンヴァス
(画像:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)
水面と、島の影と、空。人はいない。
ひとつ、彼の風景画には決まりごとがある。ほとんどが正方形である。
《アッター湖の島》も、《アッター湖畔のカンマー城》も、《ひまわりのある農家の庭》も、みな縦と横がほぼ同じ長さで描かれている。
《接吻》も、一八〇×一八〇センチの正方形だった。
いっぽうで、彼には少なくとも十四人の子どもがいたとされる。死後に認知されたのは四人である。
彼は生涯、結婚しなかった。
一九一八年二月六日
一九一八年一月十一日、脳卒中で倒れる。右半身が動かなくなった。
そして二月六日、ウィーンで死去。肺炎だった。スペイン風邪の流行の年である。五十五歳。
アトリエには、描きかけの絵が何枚も残されていた。
墓所はウィーンのヒーツィング墓地である。
受け取り方が、下手だった
わたしは、グスタフ・クリムトの《接吻》の絵が好きである。
また、今回調べてみた結果、その五年前に《この接吻を、全世界へ》の作品が世に出ていたことを知った。
《この接吻を、全世界へ》では、男性と女性の顔は見えないが、お互いがお互いを欲し、受容しているように見える。
わたしは、これまで手相や人相学、姓名判断の研究をしており、いまもその学習は続けている。
このような活動をする中で、一つ思うことがある。
愛されたいと願う人は多い。
だが、自分は愛されていい人間である、と自分に許可を出すことは、とても難しいことがある、と。
わたし自身も、その一人である。
割に自分に厳しく、こんな自分では愛されないのではないかと思っていた気がする。
だが、このグスタフ・クリムトの《接吻》を鑑賞したとき、ふとこう思った。
「愛は受け取っていいのではないか。」
「わたしは、愛されて良いのではないか。」と。
たくさんの愛が、そこにあるのに、その愛に気づかない。もしくは受け取り方が下手であった。笑
素直に、受け取ったらいい。どうもありがとうって。笑
自分自身は、愛を受け取る価値がある。そのことに許可を出す。
それだけで、自分自身への許しになる。
わたしは、このクリムトの《接吻》をきっかけに、愛を受け取る弱い自分を受け入れることができたような気がする。
愛される弱さがあっても良いではないか。
愛を受け取ったことにより、強くなり、その強さで、また誰かを愛し、誰かの心を守れたらいい。
いまは、そんなことを思っている。
日本で会えるクリムト
作品の画像は、この記事に載せたもの以外は置いていない。所蔵館のページで見てほしい。
常設で必ず出ているとはかぎらないので、行く前に確かめるのがよい。
- 豊田市美術館(愛知・豊田)——《オイゲニア・プリマフェージの肖像》(一九一三/一四年、油彩・カンヴァス、一四〇・〇×八五・〇センチ)。モデルは元女優で、夫とともにクリムトの支援者だった人である。同館は、この絵のための素描も持っている。
《接吻》があるのは、ウィーンのベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館である。
yohaku
「接吻」という言葉を聞くと、欲望の入り口のような、何か人間のいやらしい業を見せられているようなタイトルであると、幼い頃は感じていた。
なので、クリムトの《接吻》という響きの絵が好きであることは、子どもの頃は秘密にしていた。
きっと、自分の「愛されたい」という強い欲望を誰かに悟られてしまいそうで、それが怖かったのだと思う。
たった一人の人に、人間として「愛されたい」。
それは、人間として当たり前とも言える願いである。
ただ、人間の作る世界は、いつも不完全である。
どんな仕組みにも、そこからこぼれ落ちる人がいる。
その不完全さのなかで、この当たり前の願いが、ときにその人の尊厳を削ってしまうことがある。
だから、本物か偽物か、その判断はとても重要になる。
ただ、わたしは、人を愛すること、愛されること、そのものには罪はなく、むしろ人間の生活には必要であると考えている。
社会に当たり前の顔で置かれている構造を疑い、自分自身が生きる時代に合っているのか、自分自身の身体に合っているのか、自分自身の物語に合っているのか、自分の頭で考えることが必要である。
あなたの人生が、愛を与え、受け取り、実りの多い物語になることを願っている。
おもな参照:英語版ウィキペディア「Gustav Klimt」「The Kiss (Klimt)」「Beethoven Frieze」、ウィーン分離派(Secession)のベートーヴェン・フリーズ解説、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館の作品情報、豊田市美術館の収蔵作品ページ。制作年や逸話には資料によって食い違いがあり、本文では「とされる」と記した。

